第九話 公爵令息の自覚と、返せないハンカチ
ユリウスがロシーナを寮まで送り届けた夜、ランベルト公爵家の自室。
静寂を守るべきその場所に、招かれざる親友の声が響いた。
「お前、それ……」
ヴィクターが、ソファに深く腰掛けたまま、ユリウスの左手首を指差して絶句した。
治療院の無機質な包帯ではない。そこには、白いリネンが、固く結びつけられていた。
「……わかってる」
ユリウスは短くそれだけ答える。
「わかっててそのまま帰ってきたのかよ……。それで? てことは、結局そのハンカチ、また持ってきちゃったってこと!?」
「いや、それは……状況が状況だったんだ」
「なにやってんだかなあ、生真面目次期公爵様がよお。確信犯か?」
ヴィクターが、呆れ果てたように天井を仰いだ、そのときだった。
正確なリズムのノックが響き、扉が開く。
「失礼いたします。……夜更けまで、いささか賑やかすぎますな」
銀のトレイに乗せた薬瓶を運び、執事のサイモンが入ってきた。白髪を完璧に整え、一分の隙もない燕尾服を纏ったその佇まいは、公爵家の規律そのものだ。
ユリウスにとっては、幼少期からその背筋を正し続けてきた、最も敬意を払うべき相手である。
「やあ、サイモン。相変わらず耳が早いね」
「ヴィクター様。夜の静寂は、思索のためにあるものです。……さて、ユリウス様。左手を」
「……サイモン、後でいい。自分でやる」
「いいえ。……窓から抜け出された罰です。今ここで、大人しくお受けなさい」
ユリウスが観念して差し出した左手首。そこに巻かれた白いハンカチを見た瞬間、サイモンの鋭い目が、わずかに細められた。
「……ほう。よく使い込まれた、上質なリネンだ。これほど密に織られたリネンはなかなかお目にかかれません。刺繍に使われている絹糸も……ああ、これもまた美しい色彩で。随分と堅実で愛らしい治療師のようですね?……実に、丁寧な結び目だ」
サイモンの声には、皮肉というよりは、すべてを見通した上での静かな慈愛が混じっていた。ヴィクターが横から「くくっ、サイモンには敵わないね」と肩をすくめる。
「サイモン、あんまり見るな……。事情がある」
「事情、ですか。……そのために、公爵家の嫡男が窓から飛び降り、夜風を突いて走り回った。……なるほど、さぞかし大切な『事情』なのでしょうな」
弁解のしようもないため、ユリウスは押し黙るしかできない。
サイモンが、ロシーナが震える手で結んだリネンを、ゆっくりと解いていく。
ユリウスの肌に残っていた彼女の気配が、サイモンの乾いた手つきによって、公爵家の現実へと塗り替えられていく。
その喪失感に、彼はまだ名前を付けられずにいた。
「……今は、この包帯を。傷を治すのが先決です」
サイモンは手際よく薬を塗り、真っ白な包帯を、寸分の狂いもなく巻き直していく。つんとした薬液の匂いが、わずかに残っていたその名残を静かに上書きする。
最後に、サイモンは解いたばかりのリネンを丁寧に、折り畳んで銀のトレイの上に載せた。
「サイモン……! それは!」
「安心なさいませ。洗濯をするだけです。まさか公爵家の人間ともあろうお方が、このままお持ちになるということはありますまい」
「そうか。……そうだな、すまない」
「それと、治療院の窓の鍵、直しておきました。……次に出かけるときは、裏道ではなく、正門から堂々と、その方に会いに行きなさい。公爵家の誇りを、夜の闇に隠してはなりませんぞ」
そう言い残し、サイモンは満足げに一礼して部屋を去った。
ヴィクターが「……一本取られたね。あの執事には一生勝てそうにない」と苦笑する。
ユリウスは、新しく巻かれたあまりに白い包帯を見つめ、深く、長く、ため息をついた。
♢
サイモンにハンカチを預けてから、数日が過ぎた。
ユリウスは今回の実戦演習における事故の処理に追われていた。
「……ユリウス様。学園の分析では、魔導重装鎧及び魔導器具の出力系統に異常は見られませんでした。やはり外部要因の可能性が高い。
現在、地質学の教官たちが、崩落現場の深層調査を開始しています」
学園の調査チームが迅速に動き、魔導器の記録解析、斥候の進路判断の妥当性、気象変化による土壌への影響など、多方面からの緻密な検証が行われる日々。
ユリウスもまた、当事者の一人として、そして次期公爵として、その全ての会議と現地調査に立ち会った。
専門家たちが岩盤の亀裂か水脈の干渉かで議論を戦わせる中、彼はテラスでロシーナが指摘した『擬岩』という視点を、一つの有力な手がかりとして提供した。
「……表層の強固な岩盤が、かえって深部の粘土層の緩みを隠蔽していた、と?」
「ええ。彼女──ある学生の指摘によれば、この一帯の土壌は保水性が極めて高く、飽和状態に近い可能性がある」
専門家たちの知見と、ロシーナの知識が噛み合い、事故の全容が解明されていく。
それは、彼女の正しさが公的な真実として積み上がっていく時間でもあった。
事故の再発防止策をまとめ、膨大な検証データを精査する数日間。
幸いにも全員軽傷で済んだ仲間たちと、互いの状況を確認した。左手首に巻かれた包帯は、その多忙な動きを一切妨げず、少しの綻びも許さない公爵家の嫡男としてのユリウスの姿そのもののようだった。
地盤の脆弱性を主因とする最終報告書の精査を終え、ようやく静寂が訪れた自室。
ノックと共に現れたサイモンが、銀のトレイを差し出した。
「ユリウス様。……こちら、お返しいたします」
そこには、あの真っ白なリネンが載っていた。
サイモンが静かに退室し、重厚な扉が閉まる。
ユリウスは、手のひらに収めたその白いリネンを確かめるようにそっと撫でた。洗い立ての清廉さと、公爵家で長年愛用されている香料の匂いが鼻先に広がった。
(……ああ。そうか、私は──)
目を閉じれば、あの夜が蘇る。
実戦演習で負傷したユリウスは、すぐさま救護班によって学園内の治療院へと担ぎ込まれた。だが、傷口を縫い終えた直後、彼は付き添いの騎士たちの目を盗んで、音もなく窓から夜の闇へと滑り降りた。
不名誉な逃亡だが、こうするしかなかった。
もしあのままベッドに留まっていれば、朝には見舞いと称した令嬢たちが押し寄せ、社交場さながらの騒ぎになるのは目に見えていたからだ。
(……一刻も早く、馬車へ戻らねば)
公爵家の紋章が入った馬車が待つ裏門へ向かい、ユリウスは足早に裏道を進む。
だが、その足を止めたのは、夜の帳を切り裂くように駆けてくる、一人の少女の影だった。
乱れた髪、必死に地面を蹴る足音。貴族の令嬢であれば、決して見せるはずのない、なりふり構わぬ姿。
(カッセル嬢……?)
なぜ、彼女がここにいる。
探しているときには一向に会えず、忘れ物を届けようにも話しかけることさえままならない。彼女とまともに話せたのは最初のテラスを除けば、図書館の埃に塗れた一角か。
驚きと共に、ユリウスの胸の奥をずっと燻っていた思いが、焦燥のように熱を帯び出す。
彼女が向かった温室の裏へ、ユリウスは、吸い寄せられるように足を踏み入れた。
「やあ」
ユリウスの声に振り返った彼女の瞳に浮かんだのは、身分を弁えた遠慮などではなく、純粋な安堵だった。
月の光を浴びながら、ユリウスだけをその瞳に映した彼女の姿は、美しかった。
──その瞳を思い出しながら、ユリウスはゆっくり瞼を開けた。
ふとした瞬間に頭に浮かぶのは、重い鞄を抱えてはにかむ彼女の横顔や、土について語る時の凛とした声。図書室前の廊下で、名乗った後の柔らかい笑顔。
もう、気がついていない振りはできない。
ユリウスの胸の奥で、ずっと名前のなかった熱が、一気に形を成した。
(私は、彼女に会いたかったんだ)
あの夜、温室の裏で抱いた衝動の正体を、ユリウスは今、手の中の真っ白なリネンを握りしめながら、ようやく一つの答えとして導き出した。




