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完璧公爵令息と土を読み解く男爵令嬢── 我が家が国家機密の最上位だなんて聞いていません  作者: 中田かすり


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第八話 夜道を駆ける理由


 図書室から寮の自室に戻ったロシーナは、扉を閉めた瞬間、その場にへたり込みそうになった。

 手に残る鞄の重み。耳に残る『ユリウス・フォン・ランベルト』という響き。そして、最後に見たあの蒼い瞳。



(……あんなに、真っすく見つめられたこと……ない)



 顔が火照って仕方がなかった。

 そんなロシーナの様子を、同室のマリーが見逃すはずもなかった。



「……おかえりなさい、ロシーナ。ずいぶん遅かったのね」



 ベッドの上で本を読んでいたマリーが、顔を上げてじろりとロシーナを観察する。



「あ、ええ。ちょっと調べ物に時間がかかって……」



「調べ物、ね。……ねえ、どうしてそんなに顔が赤いの? それにその鞄、いつもより大事そうに抱えてる。どうして?」



「えっ、そ、そんなこと……!」



 慌てて鞄を隠すように抱え直すロシーナを見て、マリーは意味深な笑みを浮かべた。


 マリーの勘はよく当たるのだ。


 マリーはそれ以上追求しなかったが、親友としてのその勘が、ロシーナの日常に大きな波が立ち始めたことを告げていた。


 それから一週間、ロシーナは一度もユリウスの姿を見ることはなかった。


 図書室でヴィクターが言っていた通り、騎士科は実戦演習に向けて、一年で最も過酷な訓練期間に入っていたのだ。


 実務科の校舎でも、時折、遠くの演習場から騎士たちの鋭い号令や、模擬剣がぶつかり合う鈍い音が風に乗って聞こえてくる。



 ロシーナはいつもの庭園で土を掘り起こしながら、ふと手を止めて空を見上げた。



 あの日、返すはずのハンカチを持っていないことに気がついたときのバツの悪そうな顔。ロシーナの重い鞄を事も無げに持ち上げた腕。低位貴族であるロシーナに対しても、丁寧に名を告げた深い瞳。

 思い出すたび、ロシーナは小さく首を振った。



「……私ったら、何を考えているのよ。あの方は公爵家の方。住む世界が違うの……」



 打ち消そうとすればするほど、最後に交わした「お待ちしております」という自分の言葉が、重い足枷のように、あるいは甘い約束のように彼女の心を縛っていた。


 鞄の中から『基礎地層学』の教本を取り出す。



「入学した目的を忘れてはだめよ」



 自分に言い聞かせるように呟き、開いた頁の余白に視線を落とした。


 カッセル男爵家は、地方の端に位置する小さな領地を持つだけの、慎ましい家系だ。

 父は優秀な魔道測量士として各地を点々としながらも、お金を稼ぐこととは無縁の、泥にまみれて地道な作業をこなすタイプで、なんとか家計と領地を支えている。



(私は、お父様の跡を継ぐのよ。この技術を、カッセルの名を絶やさないために)



 将来、父を助け、いずれは家に入ってくれる婿養子を探さなければならない。


 贅沢なんて言っていられない。地位も名誉も、騎士としての華やかさもいらない。ただ、この地味で泥臭い測量の仕事を共に担い、田舎の小さな領地を一緒に守ってくれる……そんな人さえ見つかれば、それで十分なのだ。



(……だから、あの方だけは絶対に違う)



 あの日、あんなに鮮やかに鞄を持ち上げたユリウスの腕。けれど、その腕が守るべきは国家の安寧であり、彼が歩むべきは王都のまばゆい大通りだ。


 地方の荒れた土地を這いずり、岩盤を叩いてサンプルを採取するような生活に、公爵家の嫡男を当てはめるなんて、想像するだけで不敬が過ぎる。


 胸の奥がちりと焼けるような感覚を無視して、ロシーナは無理やり教科書の文字に目を走らせた。

 ユリウスの存在は、やはり自分にとって、束の間の夢のようなもので終わらせるべきだった。


 それなのに──。


 ユリウスと顔を合わせることもなく、まもなく二週間。


 寮の自室で、いつになく集中できずに図面を眺めていたロシーナのもとへ、マリーが血相を変えて飛び込んできた。



「ロシーナ、聞いた!?  騎士科の実戦演習で怪我人が出たらしいわ!  助けようとしたユリウス様もお怪我をされたって!」


「え!?──」


 ロシーナの中で、何かが弾ける。

 気づけば、彼女は廊下へと駆け出していた。



「ロシーナ! どこに行くのよ!!」



 マリーの制止も聞かず、ロシーナの背中は廊下の奥へ消えた。



「外出届、書きにいかなくちゃ……」



 残された廊下の静けさに、マリーは小さく肩をすくめた。


 無意識に向かった先は、学園の敷地の最北に位置する温室裏。蒼玄草の生えているあの場所だった。

 夜の闇が降りる中、真っ暗な足元にぼんやりと浮かぶその草が視界に入り、ようやくロシーナは立ち止まった。肩で息をしながら、自分でもわけがわからない感情に戸惑う。



(私、何をしているんだろう。どうしてこんな所に来てしまったの……)



「やあ」


 背後からの声に、心臓が止まるかと思った。  

 振り返ると、そこには、月明かりを背負ったユリウスが立っていた。



「ランベルト様……!」



 慌てて膝を折ろうとしたロシーナを、ユリウスが制した。



「構わない。それよりも……こんな時間に土壌調査はさすがに感心しないな」



「いえ、あの……ランベルト様、あ、お怪我をなされたのでは……」



 ユリウスが一瞬、子供のように鼻に皺を寄せながら顔を顰めた。



「もうそんな噂が? 見ての通り、大したことはない。……まいったな」



「そう……です、か。良かった……」



 ほっとして思わず漏れ出たロシーナの言葉にユリウスが柔らかく微笑んだ。


「いや。……実は、君には感謝しているんだ、カッセル嬢」



「え……?」



 ユリウスが語ったのは、驚くべき事実だった。


 今日の午前から行われた騎士科の合同実戦演習。 深い森の斜面を、重装鎧に身を包んだ騎士たちが隊列を組んで進軍する、緊迫した局面でのことだった。



「救助対象を追って、崖際の間道に差し掛かったときだ。斥候の騎士たちは『岩盤は強固、進軍に支障なし』と判断した。……だが、私は足を止めた」



 ユリウスの瞳が、月光を反射して鋭く、けれどどこか熱を帯びて光る。



「あのとき、テラスで君が盤上の土を撫でながら言った言葉が、耳の奥で鮮明に響いたんだ。『一見強固に見えても、水分を保持しやすい土壌が内部から地盤を緩めている』と」


 ロシーナは息を呑んだ。


 あのとき、ヴィクターの挑発に乗せられた感は否めないが、ユリウスの前で無我夢中で語った専門知識。放課後の、ほんのひとときのやり取り。

 それを彼は、緊迫した演習の最中に、思い出してくれたというのか。



「だから土を触ってみた。もちろん、私には君のような知識はない。だが、あの時の盤の土に似ている気がして、念の為周辺を探してみたら……見つかったんだ。

地図にも載っていない小さな沢が。

私が全軍に停止を命じた直後だった。強固に見えたはずの道が、まるで生き物のように音を立てて崩落し、谷底へと消えた。

……土が饒舌に語る、とは言い得て妙だな。もし君の言葉がなければ、重装のまま、我々は地盤沈下に巻き込まれていただろう。カッセル嬢、君の知識が、私と仲間を救った」



「そんな……私は何も。実際に動かれて、救ったのはランベルト様の方で……」


「いいや。君が土の声を聴き、伝えてくれたから、今、私はここに立っている。……そして、すまない。これを返すのが、ずいぶん遅くなってしまった。数週間も、手元に置いたままだったな」


 そう言ってユリウスが差し出したのは、あのリネンのハンカチだった。


 受け取ろうと手を伸ばしたロシーナは、彼の袖口から覗く手首の傷に気づき、動きを止めた。



「ランベルト様……その傷、このハンカチをお使いください」



「え?」



「失礼でなければ、私が巻いても……?」



「あ、ああ」



 一歩、ロシーナがユリウスに近づく。


 自分の知らない、ゴツゴツとして、たくましくて、熱い手首。


 指先が触れるたびに顔が火照るのを感じながら、ロシーナは丁寧にハンカチを巻き、結んだ。

 巻き終わると、ユリウスは少し目を細めて自分の手首を見つめ、それからロシーナに向かって、穏やかに笑った。


「ありがとう、カッセル嬢」


 ロシーナが巻いた白いハンカチは、彼の無機質な軍服の袖口で、驚くほど場違いで、それでいて温かな存在感を放っていた。

 ユリウスはその結び目をもう一度見つめたあと、ふと夜の闇に視線を落とした。



「……さて。カッセル嬢、夜道は危ない。寮まで送ろう」



 ロシーナは弾かれたように顔を上げた。



「えっ、いえ! ランベルト様は負傷されているのですから、すぐにお戻りになって手当を……ラ、ランベルト様!」



 ユリウスはロシーナの言葉を気にせずに歩き出してしまった。そしてちらりとロシーナを振り返ると、悪戯っぽく笑った。



「一度、断られているからな。私は同じ失敗は犯さないんだ。……今日は、あの重たい鞄もないようだし」



 ユリウスがロシーナの足元に視線を送った。

 そして、視線を合わせた二人が同時に吹き出す。



「……さあ。行こう」



「はい……」


 並んで歩き出した二人の影が、月明かりに照らされて、石畳の上に長く伸びた。




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