第七話 今さらですが、私の名前は
本棚の上部に『博物学・地誌』と記された古びたプレートが掛かっている。
学園の図書室の中でも一段と埃っぽく、古い紙の匂いが充満するこの一角は、ロシーナにとってオアシスだ。
魔導測量士を目指す実務科の生徒として、日中は強い日差しにさらされながら広大な庭園を歩き回るのが彼女の日課だった。
将来、過酷な現場で肌を焼かないよう、つばの広い帽子を被り、手袋をはめて挑む庭園でのサンプル採取。
そこで得た土壌の小瓶や、ひしゃげないよう慎重に持ち帰った植物の断片を、この静かな特等席でじっくりと観察するのが何よりの楽しみだった。
周囲の学生たちが華やかな社交や騎士としての演習に明け暮れる中、彼女はここで一人、資格取得に向けた難解な計算式と格闘し、採取した標本を図鑑と照らし合わせる。
この場所なら、泥のついたブーツや、測量具の入った無骨な革鞄を足元に置いていても、誰に眉をひそめられることもない。
ロシーナは、先日温室の裏で見つけた、あの奇妙な草の正体を探るべく、一冊の古い植物図鑑を開いた。表面に細かい産毛のある葉を頼りに、何度も頁をめくる。
「これだわ……」
黄ばんだ紙の隅に、ロシーナが見た通りの葉に守られるように咲いた、細い鐘形の灰白色の花がスケッチされていた。
添えられた解説文は驚くほど短く、余白が目立つ。
「……生息数が極めて少なく、開花時期を含め生態の多くは不明。一部の伝承では、花は銀色の光を放つと言われている……」
ロシーナは、花のスケッチに再び視線を向ける。
「綺麗な花……」
そして、図鑑に記されたその名に指を這わせた。
『蒼玄草──Arcano-Viridiflos』
(蒼、玄……それなのに、銀色?)
蒼は、灰緑色の葉や茎の色だろうか。
けれど、通常は灰白色で、銀色に光るというこの花の名に、なぜ「玄」という深淵を示す文字が使われているのか。
図鑑のどこを読み返しても、黒い色彩についての記述は見当たらない。
「……極めて硬い地盤を好む性質を持つ。その根は岩盤の隙間をも穿ち、地中深くへと潜り込む。かつては戦場跡地でよく見られ、その花を煎じると鎮静作用があるとされ重宝されたという……別名『眠れる乙女』」
花の美しさもさることながら、その根が選ぶ土の特異な頑強さと薬効に、ロシーナは奇妙な胸騒ぎを覚えた。
不意に、耳元にヴィクターのあの低い警告が蘇る。
『深入りしない方がいいかもよ』
(深入り、なんて……。これだけ生態も不明で、絶滅寸前だなんて書かれているのに、調べようとしたって何一つ分かりはしないわ……)
そんな希少種がなぜ学園の裏手に生息しているのか。ロシーナは温室裏の土壌を思い出す。
(硬い地盤には見えなかったけれど……)
例の警告と好奇心が、なにかの前触れのように交互にロシーナの気持ちを揺らしたそのとき。
下校を告げる鐘が鳴り、ロシーナはびくりと肩を震わせる。
「いけない! 早く戻らないと、マリーに心配されちゃう」
ロシーナが慌てて本を閉じ、席を立つ。
すると、静まり返った書棚の向こうから、規則正しい、けれどどこか切迫した、重みのある足音が近づいてくるのが聞こえた。
本棚の隙間から差し込んだ僅かな光を遮るように、長い影が彼女の足元に落ちる。
「──君はいつもこんな所にいるのか」
どこか安堵を含んだ声。そこにいたのは、隙のない、完璧な騎士服姿のユリウス。そして、そのすぐ後ろで、心底愉快そうに笑みを噛み殺しているヴィクターだった。
心臓が跳ねる。
ロシーナが頭を下げるのを片手で制し、ユリウスはおもむろに自分の騎士服のポケットを探り始めた。
右のポケット、左のポケット、胸元──。
完璧な騎士服に身を包んだ美青年が、みるみるうちに顔を青くし、あちこちの隠しポケットをガサゴソと探り続けている。
「……ない」
「えっ?……あ、ハンカチ」
「……しまった。演習のあとに着替えていない……あちらの、制服の上着のポケットに……」
あのユリウス・フォン・ランベルトが、消え入りそうな声で呟いた。
横ではヴィクターが、ついにこらえきれずにクツクツと肩を揺らして笑い始めている。
「おい傑作だな、ユリウス。あれだけ何日もタイミングを計っておいて、肝心な時にこれか」
「……だまれ、ヴィクター」
「ロシーナちゃん、聞いて。今日、僕たち騎士科は来週行われる実戦演習の予行訓練でさ。くったくたになるまで扱かれたっていうのに、ユリウスってば君が図書館に入ったのを見かけた途端、騎士服のまま飛び出して……」
ヴィクターの言葉にロシーナの頭の中にユリウスの姿が浮かんだ。彼を頼りにする令息たちに囲まれているはずなのに。訓練を見学していた華やかな令嬢たちもいたかもしれない。……走って逃げていらしたのかしら。……ハンカチのために?
(…………ふふっ)
ロシーナの口から思わず笑いが漏れた。
完璧で、高潔で、恐ろしい公爵令息。けれどその中身は、自分と同じただの学生に思えて仕方がなかった。
「……君まで笑うな」
拗ねたように視線を逸らす彼を見て、ロシーナは心の底から、やっぱり可愛い人なのだと思ってしまった。
窓の外を見れば、いつの間にか陽は完全に沈み、濃藍の夜が学園を包み込んでいる。
「……あ。もう、こんな時間」
ロシーナが慌てて荷物をまとめようとすると、ユリウスが即座にロシーナの足元にある無骨な革鞄を掴んだ。
「送ろう」
「えっ、あの、大丈夫です! 私一人で……」
「荷は私が持つ」
ユリウスは事務的な、けれど拒絶を許さない口調で言い放ち、片手でその鞄をひょいと持ち上げた。
ロシーナが毎日、顔を赤くしながら運んでいるその重みを、彼は事も無げに肩に掛ける。
「……君は、毎日こんなものを運んでいるのか」
「い、いつもはもう少し軽いのですが、試験が、近い……ので」
ユリウスは一瞬、言葉を失ったようにその鞄の重みを掌で確かめていた。
その沈黙が、妙に気まずい。
なにより、実習で使うための真鍮製の勾配計や、割れ物である採集瓶と重い計算尺。そして、よりにもよって今日は辞書ほどもある分厚い『基礎地層学』の教本を二冊も詰め込んでいる。
その今にもはち切れそうな革鞄をユリウスに持たせていることに、とうとう耐えきれなくなった。
「だ、だだ大丈夫です! すみません!」
ユリウスに謝罪し革鞄を奪い取ると、到底貴族令嬢とは思えない素早さで二人と距離を取った。
「ゆ、友人も近くにいるはずなので! 送っていただかなくても平気です!」
鞄を掴んでいた手の形のまま固まっているユリウスの横で、ヴィクターが「……あらま」と短く声を漏らした。
ユリウスが呆気に取られている隙に、廊下の遠くの方で見えなくなりかけていたロシーナが、何かに気がつき慌てて二人の元へと戻ってくる。
「失念しておりました。無礼をお許しください」
足元にどさりと革鞄を置く。
「カッセル男爵が娘、ロシーナ・カッセルと申します」
ロシーナはやっと言えたとばかりにふんわりと微笑むと、重たい鞄を担いで、再び寮の方向へと踵を返した。
「カッセル嬢!」
ユリウスの低くよく通る声が、静かな廊下に響いた。
振り返ったロシーナが見たのは、真っすぐに背筋を伸ばし、彼女を見据えるユリウスの瞳だった。
吸い込まれそうなほど深く、広大な草原を思わせる、静謐な蒼。
「ランベルト公爵嫡男、ユリウス・フォン・ランベルトだ。あなたに返したいものがある。……後日、必ず」
ロシーナは目を瞬かせながらユリウスを見つめたあと、少し困ったように、けれど、どこか嬉しそうに微笑んで「お待ちしております」と返した。




