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完璧公爵令息と土を読み解く男爵令嬢── 我が家が国家機密の最上位だなんて聞いていません  作者: 中田かすり


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第六話 見えない包囲網

 

 それからの数日間、ロシーナにとって学園生活は、さながら音のない包囲網の中にいるようだった。


 これまでの学園生活で、ロシーナがユリウスと目を合わせたことなど、ただの一度もなかった。


 同じ学年とはいえ、あちらは将来の国防を担うエリートが集まる騎士科。こちらはさまざまな資格取得を目指す生徒が集まり、連日泥にまみれる実務科の生徒。


 それに騎士科と、高位令嬢が集まる教養科の共通講義は多い。戦略論や歴史、儀礼といった講義は大講堂で行われ、そこは常に銀色の刺繍を施した制服の特権階級たちで埋め尽くされていた。


 その華やかな集団とは、吸う空気すら違うはずだった。


 それなのに──ここ数日、あきらかに何かが狂っていた。



 朝の回廊ですれ違うとき。中庭のベンチでマリーとサンドイッチをかじっているとき。あるいは、大講堂の二階席からふと一階を見下ろしたとき。


 ──目が合うのだ。


 ユリウスはいつも、高位貴族の令嬢たちに幾重にも取り囲まれている。彼女たちが捧げる熱烈な賞賛を受け流しながら、その蒼い瞳だけは、人混みを縫うようにして正確にロシーナを射抜いてくる。



(……やっぱり、怒ってる。絶対に怒ってるわ。あのハンカチ、そんなに無礼だったのかしら)



 公爵家の跡取りから無言で注視され続ける不気味さ。

 謝罪して、また元の互いに知らない他人に戻りたい。

 そう願っているのに、彼との距離は一向に縮まらなかった。


 そんな奇妙な緊張感が続く中、ロシーナは偶然、彼の別の顔を垣間見ることになる。


 借りていた本を返そうとしていた放課後。図書室へ向かう西回廊は、旧講堂へ続く古い渡り廊下と接しており、この時間はほとんど人通りがない。


 柱の影を通り抜ようとしたロシーナは、角の向こうから聞こえてきた刺々しい声に足を止めた。



「……ありえん! なぜ私の戦略論が、あんなハリス講師ごときに採点されねばならんのだ!」



 放課後の裏廊下。人通りの少ないその場所で、数人の騎士科の令息たちが集まって憤慨していた。


 その中のひとりが手にした試験結果を、忌々しげに指先で弾く。



「平民上がりの一代貴族が、高次な貴族思想を理解できるはずがない。あの男、わざと私の点数を低くつけて悦に浸っているに違いない。下賤な血筋の者が教壇に立って我らを品評するなど、この学園の汚点だ」



 その令息は批判する者がいないのをいいことに饒舌に持論を繰り広げていた。


 だが、その背後に静かに、足音が止まった。



「──採点に異議があるならば、正式な手順を踏んで不服を申し立てればいい。それが貴殿の権利だ」



 振り返った令息の顔が、恐怖で引き攣る。



「ラ、ランベルト殿……! ですが、あやつは我らの権威を、偏った採点で愚弄したのです!」



「血筋を盾に、己の知略の不足を正当化するのが貴殿の言う『権威』か」



 ユリウスの蒼い瞳には、一切の揺らぎがなかった。



「上に立つ者の誇りは、他者の出自を嗤うことではなく、誰よりも優れた結果を出し、その責任を果たすことにしかない。

……採点の不備を証明できないのであれば、今すぐやるべきは講師への断罪ではない。自らの言葉に、家名に見合うだけの価値を宿すべく研鑽することだ。

それ以外の行動は、貴族の矜持を、貴殿自ら汚しているに等しい」



 突き放すような、容赦のない一言だった。


 令息は屈辱に顔を真っ赤にしながらも、言葉ひとつ発することができない。

 ユリウスはそのまま、ただその場を去っていく。


 柱の影で息を呑んでいたロシーナは、去りゆくユリウスの背中と、立ち尽くす令息を交互に見た。



(……あ)



 あの日、テラスでロシーナが『擬岩』と口にした瞬間、真っ先に怒鳴りつけてきたあの令息だった。


 そして、あの時。


 凍りついた空気の中で、その声を遮ったのもまた、ユリウスだった。


 彼はロシーナの味方をしたわけではなかったが、彼女の突拍子もない言葉を鼻で笑うこともなかった。少なくとも彼は、ロシーナの出した答えを……その場にいた誰もが咀嚼しきれなかった事実を、切り捨てずに受け止めてくれた。



 (……なんて、真っすぐな方なんだろう)



 身分や感情に流されず、ただそこに在るものだけを見据えている。


 ロシーナは、震える手で持っていた本を強く抱きしめた。


 雲の上の存在すぎて、得体の知れない恐怖の対象だったユリウスが、初めて、血の通った一人の騎士として、彼女の胸に刻まれた。


 西回廊での一件を経て、ロシーナの中で彼を見る目は劇的に変わってしまった。


 恐怖の対象だった蒼い瞳は、今や真実を見据える高潔な騎士の象徴だ。

 だからこそ、ロシーナはこれまで避けていたその視線を、勇気を出して、そっと観察してみることにした。


 翌日の昼下がり、マリーと中庭のベンチに座っていたときのことだ。


 回廊を、騎士科の集団が通りかかる。中心には、一際背の高いユリウスがいた。



(あ……また、こっちを見てる)



 いつもならすぐさま視線を逸らすところだが、ロシーナはぐっと堪えた。


 じっと、彼の目を見つめ返してみる。

 すると、ユリウスは何かを決意したように唇を微かに動かし、こちらへ一歩踏み出そうとして──。



「ユリウス様! 次の演習について、至急ご相談が!」



 横から割り込んだ誰かの声に、彼はぴたりと足を止めた。


 その時の、彼の顔。

 氷のような無表情の奥に、ほんの一瞬だけ、獲物を逃した狩人のような、ひどく苦々しい色が混じったのを、ロシーナは見逃さなかった。



(もしかして、怒ってるんじゃなくて……)



 一度そう思ってしまうと、あちこちで同じような光景が目につくようになった。


 大講堂の出口で、彼はあきらかにロシーナの歩調に合わせて足を緩めていた。けれど、彼が口を開きかけた瞬間に、華やかな令嬢たちの集団が「ユリウス様!」と彼を幾重にも取り囲んでしまう。


 演習場の脇ですれ違う時もそうだ。彼は何度もこちらを振り返り、右手を上着のポケットあたりに伸ばしては、割り込んでくる取り巻きたちの対応に追われ、結局何も言えずに去っていく。



(…………)



 信じられない光景だった。


 あの公爵家の嫡男が。学園きっての天才と謳われる男が。


 たかが平民の実務科生に声をかける、ただそれだけのことが、周囲の壁に阻まれて一向に叶わない。



(……ハンカチのこと、そんなに言い出しにくいの?)



 あんなに真っ直ぐで、冷徹な正論を吐ける人が、個人的な一言を届けることすらままならない。


 そのあまりに不自由な包囲網の正体に気づいた瞬間、ロシーナの胸の奥で、張り詰めていた緊張がぷつりと音を立てて解けた。



(なんだか、可愛らしい……かも)



 不敬だとわかってはいるものの、そんな思いが温かく心を包み、日課の図書室に向かうロシーナの足取りは、心なしか軽やかになっているのだった。



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