第十話 鉄を欲する植物と、厄介な逃避
ロシーナはユリウスに寮の入り口まで送られたあと、着替えもせず自室のベッドに倒れ込んだ。
シーツに顔を埋めた瞬間、鼻先をくすぐったのは、冬の夜風のように澄んだユリウスの香りだった。
(……あんなの、ずるい)
送り届けてもらう道すがら、ふとした拍子に重なった視線。
あの蒼い瞳の奥に、一瞬だけ灯った熱のようなもの。それを思い出すだけで、心臓がうるさいほどに脈打ち、指先までが熱を帯びる。
ロシーナは、その甘い記憶を振り払うように枕に顔を押し付けた。
「……落ち着くのよ、ロシーナ。あの方が、誰に対しても親切で平等な方だって、もうわかってるじゃない。身分で態度を変えるような方じゃないから、私みたいな実務科の生徒にだって、あんなに気さくに接してくださるだけ。……そう、あの方は、誰にでもああなの」
そうだ。あの優しさは、自分にだけに向けられた特別な感情の結果じゃない。
公爵家の嫡男としての余裕と、騎士としての高潔さが、ただ、正しく発揮されただけだ。
そう言い聞かせないと、期待で胸が破裂してしまいそうだった。
(……勘違いしちゃだめ。私だけじゃない。そんなこと、思っちゃだめよ。……私は、私のやるべきことをしなきゃ)
翌朝、ロシーナは腫れぼったい瞼を擦りながら、クローゼットの奥から見慣れた一式を引っ張り出した。
実務科の生徒に支給される、丈夫な帆布地のエプロンドレス。それを制服の上から重ね、背中の紐をきつく締め上げる。
足元は機能的な編み上げの乗馬ブーツ。
そして仕上げに、母から「地質調査の際は、一寸の隙もなく肌を隠しなさい」と厳命されている、つばの広いクロッシェを深く被った。
視界を遮るほどのつばの奥に、腰まで編み下ろした髪を押し込む。
鏡に映るのは、昨夜の夢のような時間とは対極にある、ロシーナのいつもの姿。
学園で一部の生徒から『完全防備の土まみれ令嬢』と揶揄されていることは知っている。
だがロシーナは、自身のその姿にどこか安堵しながら、夜が明けたばかりの温室へと向かった。
顔馴染みの庭師に頼み込み、温室の一角を調査拠点として借り受けた。
頭の片隅でずっと気になっていた『蒼玄草』について、調べてみようと思ったのだ。
そこから、ロシーナの孤独で地道な作業が始まった。
一日目。土を掘る。
二日目。サンプルを試験管に並べる。
三日目。試薬の色の変化を、食い入るように見つめる。
四日目の放課後、背後で扉を開く音がした。
「入るわよ」
振り返るまでもない。親友のマリーだ。
彼女は温室の片隅に、どこから運んできたのか、自分専用のクッションと折り畳み椅子をどっしりと据え、分厚い恋愛小説を持ち込んでいた。
さらに足元にはティーバスケットまで置いて、この殺風景な温室で優雅に、快適に、長居を決め込む魂胆が見え見えだ。
「……はい、あーん。今日はベーコンと玉ねぎのキッシュよ。よく噛んで」
マリーは小説から目を離さないまま、一口大のキッシュをロシーナの口元へ差し出している。
「……あーん。……もぐ、もぐ。……マリー、これ、外側がサクサクで美味しい」
「……ふふ。バターをしっかり冷やして練り込んだのよ。……ああもう、この騎士様。焦ったいわね。……あらシーナ、あなたの爪、もう真っ黒よ?」
マリーはお気に入りの作家の、発売されたばかりの新シリーズに夢中だ。
初日こそ「あの夜、一体何があったの!?」と目を輝かせて問い詰めてきたが、私がこの完全防備で土を掘り始めたのを見て、すぐに察したようだった。
また始まったと呆れながらも、こうして毎日、読書のついでに私の給餌を引き受けてくれている。
「……マリー。……やっぱり、ここだけ急速に鉄分が減ってる」
「……はいはい。はい、次はリンゴのコンポート。飲み込んでから喋りなさいな」
七日目、八日目。
温室の隅で、ロシーナはひたすらデータの推移を追い続けた。
土を掘り、成分を調べ、記録する。
その単調な作業の繰り返しだけが、ふとした瞬間に蘇る、あの夜のユリウスの瞳を追い出してくれる唯一の手段だった。
けれど、十日目。
積み上げられたデータの山が、ついに一つの真実を弾き出した。
「……これ、は……」
ロシーナは泥だらけのグローブを脱ぎ捨て、計算機の結果を二度、三度と見返した。
温室裏の土壌。蒼玄草が自生している中心部に向かって、鉄分の含有率が目に見えて消失している。
まるで、地中の骨組みだけをすっぽりと抜き取ったかのように。
「……根が、ものすごい勢いで鉄を吸い上げてる?
それを糧にして蒼玄草が成長するのだとしたら……。硬い地盤を好むのもそのため。……だから、周囲の地盤があんなに脆くなるのね……!」
ロシーナは図書館から借りてきた古い図鑑をめくった。そこには、蒼玄草の伝承が記されている。
『──開花時期を含め生態の多くは不明。一部の伝承では、花は銀色の光を放つと言われている……』
温室裏の蒼玄草は、どれほど鉄分を奪っても、決して花を咲かせない。
枯れることもなく、ただ静かに、灰白色の葉を広げているだけだ。
(……ここの鉄じゃ、足りない……? ……咲くために必要な『何か』が、ここにはないんだわ)
理由は分からない。けれど、この植物が土壌の骨を喰らっている事実は動かない。
そして何より、なぜ生息数の少ないこの植物が、一株だけ温室裏に自生しているのか。
(……なんて興味深い植物なの。調べることが山積みだわ。)
鉄を喰らう生態の裏付け、そして開花の謎。
次々と湧き出る純粋な知的好奇心に、ロシーナはいつの間にか没頭していた。
そして、この地道な作業に身を投じている間だけは、あの夜のユリウスの蒼い瞳を、意識の底へ追いやっていられる。
(……ほら、大丈夫。私、きちんと忘れられるわ。……そうよ、きっと、大丈夫)
自分に言い聞かせる声は、複雑な計算式と土の分析結果にかき消されていく。
没頭すればするほど、あの甘やかな動揺は遠ざかり、代わりに確かな真実だけが手元に残る。
それがたまらなく心地よかった。
あまりの熱中ぶりに、ヴィクターに「あまり深入りするな」と忠告されたことすら、今のロシーナの頭からは完全に抜け落ちていた。
資料を鞄に詰め込み、さらなる確証を求めて、逃げるように図書室の奥へと向かった。
自分の胸の内にある、蒼玄草の謎よりも厄介なものから目を逸らすように。




