第十一話 公爵令息は、男爵令嬢に会えない
公爵家の自室。重厚な深い赤褐色のデスクには、騎士科の次期編制案と、明日の講義の予習資料が整然と並べられていた。
本来ならば、一時間もあれば片付くはずの分量だ。
だが、ランプの灯りに照らされたユリウスのペン先は、先ほどから同じ行の上で止まったまま動いていない。
「…………はぁ」
深い溜息が、静寂の中に落ちた。
その瞬間、背後のソファで勝手にくつろいでいたヴィクター・サヴァランが、待ってましたと言わんばかりに顔を上げた。
「おやおや。学園の至宝、完璧なるユリウス様が、そんなに深く溜息をつくなんて。……これで五回、いや六回目かな? さっきからその書類、一行も進んでいないじゃないか」
ヴィクターは手元のグラスを揺らし、面白そうに目を細めている。
「……ヴィクター、いたのか。邪魔だ、早く帰れ」
「つれないなぁ。あまりに君が一点を凝視しているから、相談に乗ってあげようかと思ってるのに。
……で? その深刻な顔の理由は、なんだい? いや、あるいは……『誰』かな?」
ヴィクターはユリウスのデスクの片隅に置かれた白いハンカチに視線を走らせた。ユリウスは無言でペンを置き、背もたれに体を預ける。
「……それを……返す機会がない」
「ぷっ。……ははは! 君が女性のことで悩む日が来るなんて。あのね、ご令嬢とのタイミングなんてこっちが作るもんなんだよ?」
「そもそも、会う機会すらない」
自嘲気味なユリウスの言葉に、ヴィクターは肩をすくめた。
「あー、まあ僕ら騎士科と実務科では、授業も、移動教室のルートだって全部違うもんなあ……」
ヴィクターがソファに深く背を預けながら言うと、ユリウスは苦々しく顔を歪めた。
「……それにしてもだ。学園内で一度も姿を見かけないなど、今までだってなかっただろう」
「……ユリウス?」
「まさか、欠席でもしているのか。彼女なら悪天候でも土壌調査をやりかねん。学務課に欠席届が出ていないか、確認させるか」
大真面目に最悪の事態を想定し始めた親友を見て、ヴィクターはついに声を立てて笑った。
「あはははは! 落ち着けよ。君がそんなことしたら大騒ぎになるぞ。あのねユリウス、さっきも言ったけど、令嬢と会いたいなら偶然を待ってたらだめさ。僕なら図書室でも庭園でも押しかけちゃうけどな」
「……おまえ、カッセル嬢と関わるなと言っていなかったか?」
「ああ、……まあね」
ヴィクターが少し思案する顔をしたのがユリウスには意外に映った。
「君のそんな姿見てたら、僕も、もう少し抗ってもいいかなってね…」
独り言のようなヴィクターの言葉が、ユリウスの部屋に静かに落ちた。
珍しく真顔の友人をユリウスが真っ直ぐに見つめた。
「それはお前の本音か?」
「んん? ……どうだろ。ま、ユリウスのことは大事な親友だと思ってるしさ! ……君の初恋を生ぬるーく見守りたいのはほんとだよ」
「だまれ。……ハンカチを返すだけだ」
すぐにいつもの調子に戻ったヴィクターの頭に、ユリウスはそばにあったブランケットを投げつけた。
「あ、ひどい」
おどけながらブランケットをつかみ、半分出た顔が笑みを消して、ユリウスに忠告する。
「イザベラ嬢……いや、ドラグネス侯爵家か…不穏な動きをしているようだよ」
「おまえはっ……」
はぁと、今日何度目になるかわからないため息を吐きながらユリウスが答える。なんだってこの友人は、自分が思い悩む問題を次々に口に出していくのだろう。
「父上から聞いている。これまでは娘の我儘だと思っていた縁談の打診だが、どうやら、現当主も動き出したらしいな」
「既成事実でも作るつもりかもね……お父上はなんと?」
「『お前は何をしているのだ?』とだけ……」
「あはははは!」
ヴィクターの笑い声が響く。
「『何をぐずぐずしている、さっさと片付けろ』ってことか。さすがランベルト公爵。厳しいなあ」
♢
翌日、学園の中央廊下。
ユリウスが歩を進めるたび、周囲には目に見えない隔たりが生じる。公爵令息という絶対的な権威と、彼を熱狂的に信奉する取り巻きたちが、いつものように厚い壁となって彼を囲んでいるからだ。
「ユリウス様、おはようございます。今朝も一段と凛々しくていらっしゃいますこと」
その中心で自信満々に微笑むのは、ドラグネス侯爵家の令嬢イザベラだった。
昨日、ヴィクターが指摘した通り、彼女の言葉には周囲を牽制するような独占欲が滲んでいる。
「昨夜、お父様と今後の『協力関係』についてお話ししましたの。きっと近いうちに、良い報せが届くと思いますわ」
周囲に親密さを誇示する、計算高い宣言。令嬢たちの間に、さざ波のような動揺が広がる。だが、ユリウスは立ち止まることさえしなかった。
「……そうか。だが、その話は必要ないと、ドラグネス侯爵に何度も伝えているはずだ。道を開けてくれないか」
一瞥もくれず、凍りつくような冷淡さで言い放つ。
イザベラの頬がわずかに引き攣ったが、ユリウスは彼女を置き去りにして、ふと窓の外へと目を向けた。
——その瞬間、ユリウスの瞳が鋭く細められた。
朝の柔らかな光が差し込む中庭。その片隅にある大きな木陰のベンチに、一人の少女が座っていた。
彼女は周囲の喧騒など耳に入っていないかのように、膝の上に厚手の本を広げ、熱心に読み耽っている。
「ユリウス様? どうかなさいましたか?」
イザベラの甘ったるい声が、焦燥を煽る。
だがユリウスは彼女に応えず、すぐ隣を歩いていたヴィクターを、視線だけでわずかに呼び寄せた。
「……ヴィクター」
「ん? 何だい」
ユリウスは顎で、窓の外、中庭の木陰を指し示した。
「……彼女は?」
その短い問いに含まれた熱量に、ヴィクターは一瞬だけ目を丸くし、それから意地悪そうに口角を上げた。
「ああ……ええっと、確かシュミット男爵家の……ロシーナ嬢と仲良しの子だよね?」
ヴィクターは、記憶を辿るように目を細めた。
「……そういえば最近、あの令嬢が一人でいるのを何度か見かけたな。いつもなら、二人でくっついて歩いてるはずなんだけど」
「……今日もひとりのようだ」
「気になる?」
図星を突かれたユリウスが沈黙すると、ヴィクターは楽しげに肩をすくめ、長い前髪をかき上げた。
「いいよ、そんなに心配なら僕が聞いてきてあげる。……『お友達は、今日はお休みかな?』ってね」
「おい、ヴィクター……!」
制止する間もなかった。
ヴィクターは「貸しひとつね」と片目をつぶってみせると、ユリウスの隣からひょいと離れた。
「あら、ヴィクター様? どちらへ?」
イザベラが怪訝そうに声をかけたが、ヴィクターは「ないしょ」とだけ軽く手を振って、軽やかな足取りで廊下の向こうへ消えていく。
後に残されたのは、身動きが取れずにいるユリウス。周囲を取り囲む令息、令嬢たちの中心で彼らの言葉を受け流す自身の姿が、ひどく滑稽に感じた。
この檻を構築し、自分をそこに閉じ込めてきたのは、他ならぬユリウス自身だ。
次期筆頭公爵として、次期宰相として、貴族たちの均衡を保ち、次代の礎を形成するための当然の義務と責務と受け入れていた。
だが、ユリウスはもう知ってしまった。彼を翻弄するように吹き抜ける、大地を纏う風の匂い。金色の西日を映しきらきらと輝く瞳の色。
ユリウスの世界に確かな楔を打ち込んだのは、ロシーナ・カッセルという、ひとりの少女なのだ。




