第四十四話 月の届かない場所
その日は、昼食が終わってもどちらも立ち上がろうとはしなかった。
片付けを終えた係の者が静かに下がり、ラウンジに二人だけが残る。
教養科は午後の授業が休講。
騎士科は学期末の実技試験準備のため自主練習期間らしい。
だから今日はもう少し。
そのことに、二人とも気づいていたが、あえて口には出さなかった。
ユリウスが本の続きを語り、ロシーナがそれに答える。そんな穏やかな時間が心地よくて、気づけば昼休みも終わりに近づいていた。
「……少し、歩かないか」
先に口を開いたのはユリウスだった。
庭園へ出ると、冬の終わりの空気が頬に触れた。
枯れた芝を踏みながら、二人はゆっくり歩く。
話すこともあったし、黙っていることもあった。
けれど沈黙は不思議と苦ではない。
ただ隣を歩いているだけで、どこか落ち着く。
それが怖いような、嬉しいような。
ロシーナはそんな曖昧な感情を持て余していた。
「実務科では、もう国家試験の話が出ているんだな」
ユリウスが何気なく言った。
「はい。そろそろ本格的に、進路が決まる時期なので」
ロシーナは頷く。
「実務科の生徒は、ほとんどがそのまま就職しますから。国家資格を取れるかどうかで、その後の仕事も変わってしまうので」
「君は?」
「私は、魔導測量士の国家資格を目指しています」
「測量士」
「はい。家業が各地の地質調査なので、その補助をできるようになりたくて」
ユリウスは真っすぐ前を見たまま聞いていた。
「家のため、か……」
「もちろんそれもありますが……それだけじゃないんです」
ロシーナは幼い頃、父に連れて行ってもらった地質調査を思い出していた。
「領地内の調査には、よく連れて行ってもらっていて。父が土を見ている横で、私は石を拾ってばかりでしたけれど。
……同じ領地でも、場所によって土の色も匂いも違うんです。それが不思議で、おもしろくって。どうしてだろうって考えているうちに、いつの間にか土を見るのが好きになっていました」
ロシーナにとって、それは今でもはっきりと思い出せる記憶だった。
「だから、私、家業が好きなんです」
そこまで言って、少し恥ずかしくなった。
こんな話を退屈だと思われないだろうかと、ユリウスの方へちらりと視線を向ける。
すると彼は、そんな心配など吹き飛んでしまうような優しい瞳でロシーナを見て、「君らしいな」と呟いた。
「いつか、君の領地を見たい」
その声があまりにも自然で、ロシーナは思わず足を止めそうになる。
いつか。
まるで、自分の未来に当たり前のようにいるみたいに。
胸の奥がまた落ち着かなくなった。
いつの間にか、テラスのある一角まで来ていた。
引き返そうかと思った瞬間。
甲高い女性の笑い声が聞こえた。
ロシーナが振り返るより先に、ユリウスが動く。
「こっちへ」
低い声と同時に、腕を引かれた。
テラス脇の茂みへ身体を引き込まれる。
枝葉が頭上を覆い、ロシーナはユリウスに抱き込まれるような格好でしゃがみ込んだ。
近い。
距離が、あまりにも近かった。
息を呑むロシーナの耳に、複数の声が届く。
「イザベラ様もどうなさるつもりかしら」
「あの騒ぎ以来随分おとなしいわよね?」
「最近、ユリウス様もお忙しそうですしね」
「お昼休みもどちらにいらっしゃるのやら」
「でも最終的には、やっぱりドラグネス侯爵家とのお話に落ち着くんじゃなくて?」
いつもイザベラを取り囲んでいる令嬢たちの声だった。
「お父様もおっしゃっていたもの。ランドルフ家とドラグネス家なら釣り合いが取れるって」
「まあ。では本当に婚約が近いのかしら」
ロシーナの肩がわずかに強張る。
婚約。
その言葉が胸に刺さった。
ユリウスは断っていると言っていた。
けれど、家同士の話となれば本人の意思だけでは決まらないこともあるのかもしれない。
公爵家と侯爵家。
自分とはあまりにも遠い世界だ。
「大体、公爵家のご嫡男の婚約者が、いまだにいないことが不思議だったのよ」
「……きっとユリウス様も、そろそろお決めになる頃合いですわ」
笑い声が遠ざかっていく。
やがて足音が消え、庭園に静けさが戻った。
ロシーナは動けなかった。
婚約の話が進んでいる。
その言葉だけが頭の中を何度も繰り返す。
もし、自分が返事をする前に全部決まってしまったら。
ユリウスが「何とかする」と言っても、本当にどうにかなるのだろうか。
胸の奥が、ひどく重い。
頭の中より身体の方が、よっぽど正直だ。
「ロシーナ」
低い声が頭上から落ちる。
「……なんですか」
思った以上に不機嫌な声になった。
まだ名前で呼ばれるのに慣れてないというのに。
どうしてこの人は、こんなに涼しい顔で平気そうにしているのか。
「今の話だが」
「……はい」
「事実無根だ」
顔を上げられない。
「ドラグネス家との話は断っている。これからも受けるつもりはない」
「でも、ドラグネス様は──」
「ロシーナ」
静かな声だった。
けれど、その声は不思議なくらい真っすぐ胸に届く。
少しの沈黙のあと。
「私が結婚したいと思っているのは、君だけだ」
「……っ!」
息が止まった。
結婚?
私と?
こんなにはっきりと言葉にされたのは初めてだった。
ロシーナはゆっくり顔を上げる。
ユリウスの顔が近い。
蒼い瞳が、真っ直ぐこちらを見つめていた。
「だから、そんな顔をするな」
ユリウスの指先が、ロシーナの下唇へそっと触れる。
「そんな顔って……」
言いながら、自分が知らないうちに唇を噛み締めていたことに気づく。
「その顔は──」
ユリウスは目を逸らさない。
「私の方が、期待してしまいそうになる」
少しだけ意地悪そうに細められた瞳に、心拍数が跳ね上がる。
早く、返事を。
返事をしなければいけない。
そう思った。
ずっと返事ができなかった。
けれど今この瞬間は。
その蒼い瞳に、その大きな手に、ユリウス・フォン・ランベルトその人に。
このまま身を任せてしまえばいい。
任せてしまえればいいのに。
ユリウスの手が、そっとロシーナの頬へ触れる。
そのまま、ゆっくりと距離が縮まっていく。
どこを見ていいのかわからず、ロシーナは視線を彷徨わせた。
ユリウスの吐息がもう、すぐそこに感じられて思わず目を閉じそうになる。
──その瞬間だった。
「……あ」
ロシーナの視線が、テラスの床下へ吸い寄せられた。
鼻先まで迫っていたユリウスが、短く息を吐いた。
「……何だ」
「あそこ……!」
ロシーナは慌てて茂みを掻き分け、テラスの縁へ身を乗り出した。
高床式のテラスの下。
薄暗い地面の奥に、見慣れた灰白色がぼんやり浮かんでいる。
「蒼玄草……?」
しゃがみ込んでさらに覗き込む。
一本ではない。
群れを成すように、何本もの茎が地中から伸びていた。
そして。
「咲いて、る……?」
花が、開いていた。
月光など届くはずのない、床下で。




