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土を読む男爵令嬢のせいで、公爵令息は完璧ではいられない──我が家が国家機密だなんて知りませんでした  作者: 中田かすり


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第四十三話 返事の前に

 




 温室へ向かう道は、不思議なくらい静かだった。

 以前ほど周囲を警戒していない自分に、ロシーナは途中で気づく。

 ユリウスが隣にいる。

 それだけで、勝手に守られているような気持ちになっているのだ。



 温室の扉を開けると、柔らかな土と植物の香りが広がった。


 いつの間に準備したのだろう。


 以前作業台として使っていた場所に、不釣り合いなほど真っ白なクロスが敷かれ、中央には昼食が並べられている。


 そもそも公爵令息である彼が、こんな場所で食事をとるなど許されるのだろうか。


 段々と心配になってきたロシーナだったが、ふとテーブルの端に置かれた一冊の本に目が留まる。



「……本、ですか?」


「ああ」



 ユリウスがその本を手に取り、ロシーナの目の前に置いた。



「ティエラ・エイカルを覚えているか」



 ロシーナは目を瞬かせながら、そっと本へ手を伸ばす。


『白銀の祈り』


 見覚えのない題名だった。

 だが表紙を開いた瞬間、飛び込んできた挿絵にロシーナは目を奪われた。



「……ティエラ・エイカル。蒼玄草の挿絵の絵師ですね……」



 淡い月光。

 夜露をまとった草花。

 一目で分かる。あの図鑑と同じ筆致だ。



「ああ。『月下に燃ゆ』と同じ、リュシアン・ヴァルハイトの作品なんだが、この時代には珍しい色付きの挿絵なんだ」



 およそ百年前の、魔導具印刷が未発達な時代の本だ。当時の色付きの挿絵など、滅多に見ることはできない。


 ロシーナは夢中で頁をめくった。



「すごい……」


「うちの書庫にあった。恋愛小説だが」



 ユリウスが一度言葉を切る。



「君は普段、あまり読まないだろう」



 様子を窺うような声音だった。


 ロシーナがそこでようやく顔を上げると、ユリウスがどこか落ち着かない様子でこちらを見ていた。


(もしかして、反応を間違えたかしら……?)


 父親以外の男性と、こんな風に向かい合うこと自体、初めてだった。


 ロシーナは慌てて手元に視線を戻す。



「この方の絵、好きなんです」



 開いた頁には鮮やかな挿絵。

 そこに描かれていた月下の花へ、自然と指先が伸びた。



「この方の描く植物、どうしてこんなに生き生きとしているのでしょう。蒼玄草の絵を見たときも、どうしても実際に見たくなって……」



 話しながら顔を上げると、ユリウスが、静かにロシーナを見ていた。

 その表情に先ほどまでの緊張感はない。

 まるで、安心したみたいに。



「……良かった」



 思わず漏れたような低い声に、ロシーナの胸がまた跳ねた。



「興味がないと言われたら、どうしようかと思った」



 ロシーナは目を丸くする。


 そんなことを気にする人だったのか。

 公爵令息で、何でも完璧にこなして、迷いなんてないように見える人なのに。



(“私”のことを、気にしてくれるの?)



 そう思った瞬間、胸の奥がじわりと熱くなる。



「興味あります」



 きっぱりと言い切る自分の声が、思ったよりも大きく響いて、気が急いているのだと気がついた。

 目の前の人を、もっと安心させたい。

 早く、素直な気持ちを伝えたい。



「すごく、嬉しいです」



 口から出た言葉はただそれだけで、気の利いたことなどなにひとつ言えやしないのだけれど。

 ユリウスは一瞬ほうけたようにロシーナを見つめ、やがてくしゃりと顔を崩した。



(あ、かわいい)



 咄嗟にそう思ったあと、そういえば以前にも同じように感じたことがあったなと思い返す。


 出会ったばかりのころの完璧な公爵令息としてのユリウスではなく。


 彼が時折見せる無防備な表情に、ロシーナはどうしようもなく目が離せない。

 そんな自分を誤魔化すように、手元の頁に視線を滑らせた。




 食事の席は、意外にも話が弾んだ。


 ユリウスが簡単にあらすじを語ってくれた『白銀の祈り』が思いのほか面白そうで、いつの間にか絵師よりも作家であるリュシアン・ヴァルハイトの話になっていた。




「恋愛小説の金字塔と呼ばれる彼だが、その実態はヴェールに隠されている」



「物語上でも蒼玄草に似た植物が登場していますよね?」



「ああ。彼の作品には蒼玄草以外にも、多くの植物が描かれている。作品数はそう多くないが、当時の光景が目に浮かぶようで、歴史書だと思って読んでいる」




 ユリウスが書庫で見つけた別の作品について口にすると、ロシーナは思わず身を乗り出した。



「それ、読んでみたいです」


「持ってくる」


「いいんですか?」


「もちろん。君のためなら」



 あまりにも当たり前のように言うので、ロシーナは思わず言葉を失った。


 以前のユリウスなら、こんな言い方していなかった気がするから。


 告白の日から、ユリウスの言葉はずっと率直だ。

 思ったことをそのまま口にするようになったというか。

 そのたびに胸が跳ねる。

 全然、慣れない。




 その夜、マリーにリュシアン・ヴァルハイトの話をすると、予想外の反応が返ってきた。



「シーナが恋愛小説に興味を持つなんて!」


「そんな……大袈裟ね」


「大袈裟でもなんでもないわ。でも嬉しい……だから、これも絶対読んで」



 気づけばマリーの手元から本がニ冊出てきていた。有無を言わさぬ勢いだった。



「読み終わったらすぐ感想聞かせてね」


「……わかった」



 マリーが恋愛小説の話をするときの顔は、いつもより少し子どもっぽい。ロシーナはマリーのその顔を、密かに気に入っていた。






 それからの数日は、不思議なほど穏やかだった。


 毎朝、女子寮の石段の前にユリウスが立っている。

それが当たり前になるまで、三日もかからなかった。


 昼はラウンジか、人の少ない中庭の隅。話が尽きることはなかった。植物の話、測量の話。ユリウスが読んだという歴史書の話。ロシーナが話すと、ユリウスは時折問いを交えながら、最後まで耳を傾けてくれる。


 放課後は会えなかった。公爵家の仕事があると、ユリウス自身がそう言っていた。


 廊下ですれ違う生徒たちの視線は、以前とは明らか変わっていた。



「あの二人、毎日一緒にいるわね」


「もしかして、もう決まってるんじゃないの?」



 嘲笑ではない。どこか遠巻きに、でも興味深そうに。


 ロシーナはまだ、返事をしていなかった。


 あのとき急がないと言ってはくれていたが、待たせている自覚はある。


 返事をしなければと思うたびに、言葉が見つからなくなる。「はい」と言えばいい。それだけのことなのに、いざユリウスを前にすると、その一言がどうしても出てこなかった。


 いつまで、待ってくれるのだろう。


 跡取り同士で、生きている場所も違う。ユリウスが「何とかする」と言っても、どうにかなるものなのか、ロシーナにはわからなかった。



 夜、部屋のベッドに横になり、天井を見上げる。


 ふと、領地で働く両親の姿が思い出された。



 

 「父様に、話してみるべき……よね」



 返事をする前に。

 父、そして母にだけは、きちんと伝えておきたかった。

 


 体ごと横に向けると、薄いカーテンの向こうからマリーの規則正しい寝息が聞こえる。

 それを聞きながら、ロシーナも目を閉じた。







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