第四十一話 君が好き
翌朝、ロシーナは意図的に登校時間を遅らせた。
いつもより三十分。それだけずらせば鉢合わせは避けられる。そのはずだった。
昨日のことを、まだうまく整理できていない。言うつもりのなかったことまで言ってしまった。
期待させないでと言う言葉は、裏を返せば期待していると言ったも同然だ。ユリウスのことをずるいと思っていたけれど、それなら自分だって同じだとも思う。
正直なところ、どんな顔をして会えばいいのかわからない。
昼食はマリーより少し遅い時間にずらした。
騎士科が講堂で講義を受けている時間は大階段に近づかなかった。図書室にも、もちろん行かない。
教室の窓から外を見ると、渡り廊下をユリウスが歩いている。
目が合いそうになって、ロシーナは視線を落とした。
気づいてしまう。
どこにいても、見つけてしまう。
漆黒だと思っていたユリウスの髪が、光を受けるとわずかに青を帯びることを初めて知った。それが本当に綺麗で。繰り返し確かめるように目で追ってしまう。
今まで気づかなかった。
こんなに何度も会っていたのに、気づいていなかった。
「シーナ、大丈夫?」
マリーに覗き込まれて、ロシーナは顔を上げた。
「なにが? 私は大丈夫よ?」
「……そう?」
「本当に、何でもないの」
マリーは不審そうな目をしたまま、それ以上は聞かなかった。
♢
二日目になると、避けても避けても姿を見かけた。
朝、渡り廊下で前方に姿を見つけて引き返した。
昼、カフェテリアへの近道を避けて遠回りした。
午後の移動でも、廊下の角を曲がったところで目が合いそうになって、咄嗟に掲示板の前で立ち止まった。
どんな顔をして会えばいいのかは、やっぱりわからないままだ。
放課後、今日中に返さなければならない本を抱えて西回廊に入る。ここなら人が少ないから図書室まで、人目を避けて行ける。
「カッセル嬢」
聞こえなかったことにしたかった。
足を速める。
追いかける足音が、だんだんと迫ってくる。
「待ってくれ!」
今度ははっきりと聞こえたが、待つはずもなく。
あの角を曲がったら、図書室まで全速力で走ろう。そう思った直後。
「ロシーナ!」
足が、止まった。
裏廊下には、夕方の光が長く差し込んでいた。
止まってしまった足を動かすことができない。
後ろから近づいてくる足音が、すぐ後ろで止まる。
ロシーナは、振り返ることができなかった。
「……頼む。話がしたい」
低い声。
責めるような響きはない。
ロシーナは何も言うことができず、胸の前の本を強く抱きかかえた。
ユリウスが小さく息を吐く気配がする。
「すまなかった」
その言葉に、ロシーナは目を瞬いた。
「君を不安にさせた」
静かに、ゆっくりと、ロシーナに届くのを祈るような声。
「伝わっているつもりだったんだ」
一歩、足音が近づく。
「噂になっても構わないと言った。線を引くなとも。私を、望んで欲しいと言った」
ロシーナの指先が、ぎゅっと本の端を掴む。
「だが、一番大事なことを言っていなかった」
振り返れない。
振り返ったら、たぶん、駄目だと思った。
「……ロシーナ」
名前を呼ばれる。
それだけで、胸の奥が強く鳴った。
「ロシーナ。こっちを向いて。君の、顔が見たい」
俯いたままのロシーナは、その言葉に頭を大きく横に振る。
見せられるはずがない。
今、自分がどんな顔をしているのかさえわからないのに。
ユリウスがまた一歩、ロシーナに近づく気配がした。
いや。一歩だけではなく、そこからまた一歩。
冬の森を思わせる香りが近い。
恐る恐る顔を上げると、蒼い瞳がもうすぐそこで。
整った唇が、まるで、都合の良い夢のように動き出す。
「君が好きだ」
呼吸なんてできない。
「最初に興味を持ったのは君の知性だった。それから、君を知るにつれ、放っておけなくなった。気づけば私は、君のことで頭がいっぱいだ」
ユリウスの声が静かに。
静かにロシーナの鼓膜を揺らす。
「君が他の男といるのは嫌だ。君の笑顔を見るのも、隣に立つのも全部、私であってほしい」
耳を震わすその声が、全身を甘く包んでいく。
本を抱える腕に、力が入った。
支えなければ、立ってられない。
「だから、期待してくれたら嬉しいんだ」
その言葉に、ロシーナの肩がわずかに揺れる。
「期待させたのは私だ。今後も、やめる気はない」
逃げ道を塞ぐような言葉なのに、不思議と怖くなかった。
「……ずるいです」
やっと絞り出した声は、思ったより弱くて。
頭上から、少しだけ笑う気配がした。
「すまない。自覚はある」
あまりにも開き直った謝罪に、また調子を狂わされる。
夕陽の中で見るユリウスの髪は、美しい青を帯びていた。
こんな状況なのに、やっぱりそれを綺麗だと思ってしまう自分が悔しい。
ユリウスがまっすぐロシーナを見た。
「返事はすぐでなくていい」
低い声が静かに続く。
「だが、もう避けるのはやめてくれ。君に避けられると堪える」
初めて聞く懇願に近い言葉に、ロシーナはただユリウスを見つめることしかできなかった。
だってさっきから、立っているのもやっとなのだから。




