第三十八話 その先を、想ったとしても
放課後、ロシーナはひとりで教室を出た。
その足が向かう先は温室裏。満月の日以来だった。
まもなく下校時刻を迎えるこの時間は残っている生徒もまばらで、周囲の目も気にならない。それまで幾度となく訪れていた温室に、懐かしさを感じた。
冬の日差しは薄く、地面は固く締まっている。温室の角を曲がると、冷えた空気が一段と深くなった。
かつて蒼玄草が生えていた場所には、何もなかった。
掘り返された跡も、湿った土の筋も、あの灰白色の茎も。ただ平らに均された土が、周囲と同じ色で広がっているだけだ。補修されている。丁寧に、跡形もなく。
ロシーナはしゃがみ込み、土に触れた。
固い。水分も少ない。何かがあったことを、土はもう覚えていない。
指先に馴染みのない感触がある。
よそから運ばれてきた土。
さらさらと均質で記憶が薄い。この土は、ここで何があったのかを教えてはくれない。
「カッセルのお嬢さんか」
顔を上げると、庭師が荷車を引いてこちらへ向かってくるところだった。白髪交じりの眉の下で、皺だらけの目がロシーナを見ている。
「久しぶりじゃな」
「……はい。なかなか、来る気になれなくて」
庭師は荷車を脇に止め、ロシーナの隣にしゃがみ込んだ。節くれだった指が、同じように土を押す。
「きれいなもんじゃ」
「……はい」
「ワシが直したんじゃないがな。学園の者が来て、さっさとやっていったよ」
庭師は立ち上がり、腰を伸ばすように空を見上げた。薄い雲が西から流れてくる。
「あのとき、ちょうど休みをもろうとってな……戻ったら何も残っておらんかった」
ただ独り言のように言って、またゆっくりと荷車の柄を握る。
「お嬢さんが一生懸命調べとったのに、残念じゃったな」
「……そう、ですね」
絞り出した返事が、白い息になって消えた。
庭師は荷車を引いて歩き出す。遠ざかる足音が、冬の地面に鈍く響いた。
ロシーナはそのまま、均された土を見つめた。
残念。
そうだ、残念だ。
蒼玄草は消えた。研究は終わった。それは確かに残念なことだった。
なのに。
今、頭の中を占めているのは。
——私が、なんとかしてみせる。
また、あの言葉を繰り返す。
ロシーナは指先を見た。触ったときに付いた砂が、パラパラと落ちた。
なんとか、とは何だろう。
身分差を、ということか。跡取りの問題を、ということか。
ではそもそも。
ユリウスはロシーナに対して、何を望んでいるのだろうか。
気持ちを向けてくれている、とはわかる。
それがどういう種類のものなのかまでは、まだわからないけれど。
だがその先──。
学園の間だけなのか、卒業すれば終わる話なのか。なんとかする、の先にロシーナがいるのかどうかさえ。
公爵家嫡男には、いずれ家が決めた相手との結婚が待っているはずだ。その先で自分がどういう立場になるのか、ロシーナには想像もつかなかった。
結局、何もわからない。
ユリウスが何を望んでいるのかも。
自分が何を望んでいるのかも。
なのに昨日も、一昨日も、隣を歩きながら心臓がうるさかった。わからないくせに。
我ながら、どうかしている。
それでも、思考は止まらなかった。
なんとかする、の先に自分がいると仮定して。
その先を、ロシーナは想像しようとした。
公爵家に嫁ぐ自分。社交界に立つ自分。あの場所に、ドレスを着て。
無理だ、と思った。無理、という言葉より先に、画が浮かばなかった。
いつか見た大階段の、イザベラが立っていた場所を思い出す。完璧なドレス、完璧な所作、完璧な笑顔。あれがユリウスの隣に相応しい世界だ。
自分が落ち着くのは、土の匂いのする場所で。
膝をついて、指先が汚れて。
あの世界とは、違う。
土の上に、枯れ葉がひとつ落ちてきた。風もないのに、ひらりと。
ロシーナはそれを拾い上げた。葉脈だけが残って、透けるほど薄くなっている。
「……相応しくない、はわかってる」
葉を土に戻して、立ち上がる。膝についた土を払う。
わかっている。
それなのに、気づけばまた、あの蒼い瞳を思い出してしまう。
らしくなかった。ひどく、らしくなかった。
ロシーナは温室裏を後にした。
冬の空は低く、白い。遠くで風が木の梢を鳴らしている。
何度想像しても、頭に浮かぶユリウスの隣に、ロシーナはいない。




