第三十六話 ただの男爵令嬢
翌朝、学園の空気が変わっていた。
廊下を歩くたびに、断片が耳に入る。昨日までとは、声の色が違った。
「ランベルト様が庇ったらしい」
「男爵令嬢を? イザベラ様をじゃなくて?」
「共同研究者だって」
「申請書まで出しててたって本当?」
「じゃあ、本当に危険な植物だったんだ」
噂が消えたわけではなかった。ただ、方向が変わった。それだけだ。それだけのはずなのに、なぜか昨日より息がしにくかった。
「私、シーナに何もしてあげられなかったわ。昨日のランベルト様、さすがね」
朝食の席で、マリーが静かに言った。
「そんなことない。マリーがいたから──」
ロシーナが言いかけると、マリーは首を振った。
「事実よ。……自分の無力さが嫌になる」
「違うわ」
「え?」
「私が、ちゃんと話せなかったから」
スプーンを握る指に力が入る。
「あの場で、自分でちゃんと説明しなければならなかったのに……」
昨日の光景が蘇る。
向けられたたくさんの視線。
囁き声。
責めるような目。
胸が苦しくなって、身がすくんだ。
「マリーにも心配をかけてばかりだし……結局、ランベルト様に助けていただいてしまって」
「シーナ……」
「っ……ごめんなさい。私、あんな風に庇っていただく資格なんてないの」
マリーが、ぎゅっと口を結ぶ。それからゆっくりと、カップをソーサーに置く音がした。
「資格とか、そういう話じゃないでしょう」
普段の柔らかな笑みはなく、珍しく眉間に皺を寄せている。
「シーナ、あなたは守られることに慣れていないだけよ」
慣れていない。そうかもしれない。けれどそれだけじゃない、とロシーナは思った。慣れてしまうことが怖かった。
何も言えないまま、スプーンを置いた。
♢
放課後は、図書室へ向かった。いつも通りのつもりだった。
けれど、足を踏み入れた瞬間、周囲がわずかに静まった。視線が集まるのがわかる。怖がるのでも、嘲るのでもなく、値踏みするような、距離を測るような。
「……蒼玄草の人だ」
「ランベルト様の、共同研究者」
聞こえないふりをした。本棚の間を抜けて、いつもの席へ向かう。
他者に無関心に見えた図書室の面々も、相手がユリウスとなると話が違うのか、不躾な視線が背を針のように刺してくる。噂は消えていない。ただ種類が変わっただけだ。それがかえって、じわじわと重かった。
あんなに大好きだったこの場所でさえ、居心地が悪い。
土壌学の本を数冊抱えて、帰ろうとしたとき。積みすぎた本が、傾いた。
「っ!」
崩れる前に、大きな手が支えた。
「……無理をするな」
振り返らなくてもわかった。もう嗅ぎ慣れた、冬の森を思わせる静かな香りが鼻先を撫でる。本を支える手が近い。たったそれだけで、心臓が落ち着かなかった。
以前この場所で聞いてしまった言葉が、まだ耳に残っている。
『彼女以外、考えられない』
思い出すだけで、胸の奥が熱くなる。
けれど同時に、周囲の視線も痛いほど感じていた。ユリウスの隣に立つたび、自分の場違いさを突きつけられる。公爵家の嫡男と、実務科の男爵令嬢。昨日カフェテリアで起きたことが、それをより鮮明にしただけだった。
ロシーナは本を抱え直し、視線を伏せる。
「……あまり、こうしてお話されない方が」
「なぜだ」
「昨日の今日ですし……」
そこで言葉が詰まった。本当は違う、とロシーナは思う。怖いのは噂だけじゃない。優しくされるたびに、期待してしまう自分が怖かった。
「私は、実務科のただの男爵令嬢です」
あえてそう言えば、少しは楽になると思った。線を引けば、期待しなくて済む。
けれど。
「ただの、か」
ユリウスがふっと微笑んだ。
「私の知る君とは、随分違うな」
ユリウスはロシーナの抱える本をひょいと取り上げると、そのまま歩き出す。
「え、あの……」
「借りるんだろう?」
「はい……あのっ」
「寮まで運ぼう」
「自分で持てます」
「知っている」
足を止めずに、ユリウスが続けた。
「それでも、私がそうしたいんだ」
ユリウスは当然のように本を持ったまま貸出カウンターへ向かう。
ロシーナが慌てて後を追った。
図書室を出ても、周囲の視線は途切れなかった。
すれ違う生徒たちが、一瞬驚いたように目を見開く。
「……やっぱり、よくないです」
「何がだ」
「その、こうして一緒にいると……また変な噂が」
「もう手遅れだ」
淡々と返され、ロシーナが言葉に詰まる。
「でも……ランベルト様にご迷惑が」
「困らないが?」
「わ、私は……困るんです!」
思わず強めに言うと、ユリウスが足を止めた。
振り返った蒼い瞳に思わず息を呑む。
「なぜ」
「……なぜって」
言えなかった。
あなたを好きになってしまうから、なんて。
「私は、あなたの隣を歩けるような人間じゃありません」
絞り出すように言った。
ユリウスが再び歩き出す。
「私はそうは思わない」
ロシーナの歩幅に合わせるように、ゆっくりと。
そんなことに、どうして今、気づいてしまうんだろう。
目の前を歩くユリウスが、自分を気遣ってくれている事実に全身が甘く痺れる。
だからこそ、自分に言い聞かせるように口を開いた。
「ランベルト様はいずれ公爵家をお継ぎになる方です」
「そうだな」
「……私は、男爵家の跡取りです」
「ああ」
「ですから! 私じゃだめなんです」
最後の声は自分でもわかるくらい震えていた。
ユリウスが、何かを確かめるようにロシーナを見る。
「……君は、それでいいのか?」
「え……」
問うた瞬間、ユリウスが自分の額を押さえた。
「……いや、今のは忘れてくれ。すまない」
ロシーナは何も答えられない。
再びユリウスの足が止まり顔を上げると、いつのまにか寮の入り口に着いていた。
「君が身分や、後継者としての立場を気にしているなら──」
ユリウスの蒼い瞳が真っすぐにロシーナを見つめる。
「私が、なんとかしてみせる」
耳の奥で、脈が大きく鳴っている。
抱えていた本がロシーナの手にそっと置かれた。
「ではまた。明日学園で」
ユリウスが告げる。
その表情は、まるで獲物を逃がさない狩人のようにロシーナを捕える。
心臓だけが、うるさかった。




