第三十三話 彼の彼女
廊下を歩くと、声が聞こえる。
近づけば途切れ、離れればまた続く。
「聞いた? 実務科の」
「え、あの『土まみれの──』ってやつ?」
「やっぱり本当だったんだ」
どこで誰が言い始めたのか、もうわからない。
断片だけが耳に残り、視線の向く先はわかった。
ロシーナは真っすぐ前を向いたまま歩いた。
露骨に道を開ける者もいた。昨日まで普通に挨拶を交わしていた顔見知りが、さっと目を逸らす。廊下の端を歩いていても、どこか居心地が悪い。
足が、重い。
両足を交互に動かしているはずなのに、前へ進んでいる気がしなかった。
マリーがロシーナの一歩前に出る。
「ちょっと、あなたたち──」
マリーの腕をそっと引いた。
「いいの」
「よくないわ」
半ばマリーを引きずるように、ロシーナは歩き続けた。
「噂を聞いただけで、自分で確かめもしないで。シーナのこと、何も知らないのに」
声が低かった。普段穏やかなマリーが、こういう声を出すのは珍しい。
「マリー」
「……わかってる。でも、納得できないわ」
それ以上は言わなかった。マリーが隣に並び、ロシーナの腕にその手を重ねる。何かを言われたら、きっと受け止めきれない。そう思って、ロシーナは前だけを見る。
しばらく、足音だけが続いた。
正午の鐘が鳴る少し前、ロシーナは一人で図書室へ向かった。
食欲がなかった。マリーにこれ以上心配をかけたくなくて、調べ物があると言い訳を残して教室を出た。
図書室は静かだ。
古い紙の匂いに包まれ、思いきり息を吸う。
ここでは、誰もロシーナを見ない。
視線を向けられないだけで、こんなにも息がしやすいのかと思う。
学園の中で、唯一肩の力を抜ける場所だった。
いつもの一角に近づいたとき、声が聞こえた。
(誰か、いる?)
足が止まる。本棚の影に身を寄せた。
「ロシーナちゃんいないね」
「教室に向かった方が良かったかもな」
(……ランベルト様と、サヴァラン様……?)
ロシーナが普段よく座る席を囲んで、何やら二人で話し込んでいる。
「どうするつもりなの? あの噂」
「出所は、ほぼ絞れた」
「さすが。で?」
「全部、潰す」
「あはは! 容赦ないねえ。ていうか、ユリウス。もしかして、もの凄く怒ってる?」
「当たり前だ」
地を這うように低く、聞いたことのない声だった。
「へえ。君ってもっと冷静で、感情的にはならないと思ってた」
「……私もだ」
ヴィクターは何も言わない。窓から差し込む光が、古い紙の埃をゆっくりと舞い上がらせている。棚の向こうで、ヴィクターが腕を組み直す気配がした。
「ロシーナ・カッセル、か。大したもんだな、彼女。君をそこまで本気にさせるなんて」
どくん、と心臓が鳴る。不意に呼ばれた自分の名に、うるさいほど鼓動が早く打つ。
「でも、相手は跡取り娘だよ? わかってて言ってる?」
聞くべきではない。立ち去るべきだった。それでも足が動かなかった。
「それでも……彼女以外、考えられないんだ」
かたん。
肘が本棚の端に当たった。気配が動く。ロシーナは走った。廊下へ出て、角を曲がって、壁に背をつける。
(うそ……)
あの方は公爵家の嫡男で、次期宰相候補で。それで──。
イザベラと、隣に並ぶ令嬢たちを思い出す。
磨き抜かれた靴音。宝石。迷いのない笑み。
あの場所に立つべきなのは、自分ではない。
そんなことは、とっくにわかっていた。
それでも、ユリウスが向けてくれる視線を思い出してしまう。
温室で蒼玄草を観察していたとき。
手首にハンカチを巻いたとき。
自分の話を、最後まで聞いてくれたとき。
足を滑らせ、助けられたとき。
掴まれた腕に残った熱は、なかなか冷めなかった。
身の程を知りなさい。
イザベラの言葉が、するりと割り込んできた。
土まみれ令嬢。
教室や廊下で、口にされている噂も。
わかっている。
──それでも。
『彼女以外、考えられないんだ』
繰り返してしまう。
──選ばれたい。
初めて、言葉になった。
かつてユリウスが触れた左腕が、再び痺れたように熱く感じる。
ロシーナはそこを強く握ると、壁に背中を預けたまま座り込んだ。




