第三十一話 身の程
外は厚い雲に覆われている。
低い空はうっすらと白く、午前の講義を終えた学園を冷えた空気が静かに満たしていた。
机の上ではノートが閉じられ、椅子が引かれ、昼食の相談があちこちで始まっている。
ロシーナが荷物をまとめる横で、マリーはショールに顔を埋める。
「今日は一段と冷えるわね……中庭はやめておかない?」
「そうね、カフェテリアがいいかも」
廊下に出た途端、ひんやりとした空気が頬に触れる。ロシーナも異存はなかった。
この様子では、カフェテリアもすぐに混み合ってしまうだろう。
マリーと歩きながら、自然と足が早くなってしまう。
その途中、ロシーナが何かに気がついたように、あ、と足を止めた。
「どうしたの?」
「さっきの講堂に、資料を忘れてきてしまったわ」
「あら。一緒に取りに戻りましょうか?」
「ううん、すぐだから。マリーは先に席を取っておいて!」
言い終えるより早く、ロシーナは踵を返す。
長い廊下を抜けて、大階段に差し掛かったところで、上階から人の流れが降りてくる気配がした。
見上げるとそこにはひときわ視線を集める存在がいた。
イザベラ・ドラグネス。
周囲には数人の令嬢たちが、彼女を囲むように華やかな笑い声を上げている。
その中心に立つイザベラは、手入れの行き届いたブロンドの巻き髪を揺らしながら、曇天の下でも煌びやかな存在感を放っていた。
階段の隅に身を寄せたロシーナが、自分の靴先を見つめ、そのまま通り過ぎようとした、そのとき。
「あなた」
反射的に顔を上げたロシーナを、冷ややかな目つきのイザベラが見下ろしていた。
「カッセル家の方、よね」
問いかけているようで、ロシーナの返答など初めから必要としていないことはすぐにわかった。
ロシーナが小さく、はい、と頷くと、イザベラの視線がさらに細くなる。
「ねえ、あなた。ユリウス様からお離れなさいな」
一瞬、周囲から一切の音が消えたような錯覚に陥る。突然の言葉に頭が追いつかない。
答えようとする前に、言葉が重ねられた。
「実務科の方が、騎士科の方と随分と親しくなったものね」
よく通る声が吹き抜けを通して高い天井に反響する。通りがかりの生徒たちが、ちらちらとこちらを窺っている。
「身の程をわきまえたらどうかしら」
身の程。
その言葉だけが、やけにはっきりと耳に残る。ロシーナはなにか答えなければと、言葉を探したが、適切な返答は浮かばなかった。
イザベラの周囲を取り囲む令嬢たちが、くすくすと笑った。
「ねえ」
イザベラの赤い唇が、ゆるやかに弧を描く。
「最近、良くないことがあったんじゃなくて?」
言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
直後、先日の教室の光景が脳裏をよぎる。
あの子爵家の令息から窓際へ追い詰められたこと。
手に持っていた定規を、思いっきり振り下ろしてしまったこと。
イザベラが言っているのは、そのことだろうか。
──そう思った瞬間、どくんと、心臓が嫌な音を立てた。
唐突に温室の惨状が浮かぶ。
床に散らばるガラスや紙片。
横倒しになった椅子。
切り裂かれたクッション。
「……どういう、ことでしょうか」
なんとか絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「せいぜい、お気をつけて?」
イザベラはそれ以上なにも答えなかった。
ただ、会話の終わりを示すように、周囲の令嬢たちに視線を向けた。
そのまま、もうロシーナの姿を視界に入れることなく、イザベラは階段を下りていく。
令嬢たちも当然のようにそれに続き、入り混ざる香水の残り香だけが、大階段を漂う。
立ち止まっていた野次馬たちは、拍子抜けしたように再び動き出した。
ロシーナだけが、しばらくその場に立ち尽くしていた。
♢
その後、学園にひとつの噂が広がっていった。
教養科の貴族令嬢が、退学したらしい。
理由は明確には語られていない。
学期半ばの突然の退学だったため、何か問題を起こしたらしい、という断片だけが、共有されている。
それ以上を知る者はいないし、知る術もない。
ロシーナはその話を、廊下でマリーから聞いた。
「聞いた? 教養科の方、急にいなくなったんですって」
「……そうなの?」
「あまりにも急なことで、周囲の方たちも驚いているらしいわ。でも詳しいことは誰も知らないの」
マリーはそこで少しだけ声を落とした。
「なんとなく、嫌な感じがするのよね」
ロシーナも同じ感覚を抱いていた。
思い浮かぶのはあの赤い唇。
『最近、良くないことがあったんじゃなくて?』
あの言葉が、頭から離れない。
イザベラとのやりとりや、先日の令息の件は、まだ、マリーには話していなかった。
話せばきっと、心配をかける。
もし、あの言葉が温室の件を指していたのだとしたら。
そして、退学した令嬢がその件に関わっていたのだとしたら。
そこまで考えて、ロシーナは小さく息を吐いた。
答えの出ないことを考えても仕方がない。
ロシーナは思考を振り払うように顔を上げ、マリーと並んで歩き出す。
冬の光が差し込む廊下は静かで、何事もなかったようにいつも通りの日常を続けていた。




