第三十話 お前では、無理だ
イザベラ・ドラグネスが声をかけてきたのは、午後の講義が終わった直後だった。
数名の令嬢と共に待ち構えるように廊下に立っていた。
「ユリウス様、今日はぜひ、ランチをご一緒に」
取り巻きが周囲を囲む。いつものことだった。イザベラが何か言っているのに相槌を返しながら、ユリウスの意識は半分そこにはない。
それでも完璧に、笑顔を作る。
「──あら?」
イザベラの声のトーンが変わった。
「あれって……」
促されるように視線を向けた先、中庭を挟んだ教室の窓。薄暗い室内に、重なるようなふたつの人影が見えた。
男の方には、見覚えがあった。いつだったか教師の採点に不満をぶつけていた令息。テラスで一度請われ、戦術盤の相手をしたことがある子爵家の令息。
女の髪がさらりと揺れ、その顔が露わになる。
「……カッセル嬢?」
声に出したつもりはなかった。
♢
イザベラに呼ばれたのは昨日のことだった。
用件を聞いた瞬間、ジャック・ベルモンは内心で盛大に舌打ちをした。
(面倒な……)
だが断れる立場でもない。ドラグネス侯爵家の令嬢に逆らって得することは何もなかった。
「カッセル家の娘に近づいて。ユリウス様に見えるところで」
それだけ言って、イザベラは扇で口元を隠した。意図は明白だった。
(まあ、男爵家の令嬢なら婿の口もあるか)
そう思いながら翌日、ジャックはロシーナを探した。
ロシーナを見るのはテラス以来だった。
以前、テラスで公爵令息との手合わせに割り込み、見栄を張ろうとして返り討ちにあった。そのとき苛立ちの中で目に入ったのが彼女だ。
女のくせに小賢しいと思ったはずなのに、改めて見ると印象は違った。
噂通り地味で泥臭いが、顔立ちは整っている。落ち着いた物腰も、その体躯も悪くない。
「おい、そこの。ハリス講師がお呼びだ。ついてこい」
こちらは子爵家。相手が男爵令嬢なら従うだろうとわかっていた。
案の定、ロシーナは一瞬だけ表情を曇らせたが、頷いた。
教室に入ると、ジャックは扉を閉めた。
「あの、ハリス先生は……?」
ジャックは何も答えない。
ロシーナの顔色が変わった。
「どういうつもりでしょうか」
「ちょっと話がしたかっただけだ」
教室から出ようとするロシーナを少しずつ窓際へ追い込みながら、ジャックはわずかに身をかがめた。
ロシーナの退路を塞ぐように、距離を詰める。
「お前、カッセル家の跡取りだろう。悪い話じゃないと思うが。俺はベルモン子爵家の三男で──」
「近づかないでください!」
ロシーナの鋭い声に鼻白む。誰かに聞かれたらどうするんだ。もし悲鳴でもあげられたら……。
ジャックは慌ててロシーナの口を塞ごうとさらに一歩近づいた。
その瞬間だった。
視界が白くなった。
鈍い衝撃。鼻の奥に痛みが広がる。
「っ……!」
膝から崩れると、床に定規が落ちた。見上げるとそこに、ロシーナはもういなかった。開いたままの扉の向こうで、走り去る足音が遠ざかっていく。
(……っくそ!)
ジャックは床に座り込んだまま、しばらく動けなかった。
♢
廊下を走りながら、ユリウスの頭は沸騰していた。
イザベラの声が耳の奥に残っている。
「あら、まあ。殿方と二人きりだなんて、はしたない」
(ふざけるな)
(彼女があの男とだと?)
走りながら、ユリウスは自分の内側に初めてまともに向き合った。
怒りではなかった。
いや、怒りもあった。だがそれより先に、別の感情が全てを塗り潰していた。
駆けつけてどうしようというのか。
自分でもわからないまま、沸き立つ衝動が二本の脚を動かし続けている。
ロシーナのそばに男がいる。
それだけで、こんなにも。
実際あの男の方が彼女の事情には当てはまるのではないか。男は確か三男だったはずだ。彼女があの男を受け入れてしまったら?
それはユリウスにとってひどく耐え難いことに思えた。
そうだ。
耐え難いことなのだ。
だから今、ユリウスは廊下を全力で駆けている。
認めた瞬間に、迷いが消えた。
走った先の教室の扉を開けると、床に座り込む男と、落ちた定規があった。
ロシーナの姿はない。
ユリウスは男を見た。鼻を押さえて、情けない顔をしている。
「自力で……逃げたのか」
落ちていた定規を拾い上げる。年季の入った、測量用の大ぶりな定規。
これでこの男を……?
「……っ」
その光景を想像し堪えきれず、ユリウスは声を上げて笑い出した。
廊下に響くほど笑ったのは、いつぶりだろう。
男が唖然とした顔でこちらを見ている。
ユリウスはようやく笑いを収めると、男を一瞥する。男の肩がびくりと震えた。
「お前では、無理だ」
ユリウスはそれだけ言い放ち、教室を出た。
さて、彼女はどこにいるだろうか。
行きそうな場所を、しらみつぶしで探したい気分だった。
早くロシーナに会いたいと、そればかり考えていた。




