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土を読む男爵令嬢のせいで、公爵令息は完璧ではいられない──我が家が国家機密だなんて知りませんでした  作者: 中田かすり


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第三十話 お前では、無理だ

 



 イザベラ・ドラグネスが声をかけてきたのは、午後の講義が終わった直後だった。

 数名の令嬢と共に待ち構えるように廊下に立っていた。



「ユリウス様、今日はぜひ、ランチをご一緒に」



 取り巻きが周囲を囲む。いつものことだった。イザベラが何か言っているのに相槌を返しながら、ユリウスの意識は半分そこにはない。

それでも完璧に、笑顔を作る。



「──あら?」



 イザベラの声のトーンが変わった。



「あれって……」



 促されるように視線を向けた先、中庭を挟んだ教室の窓。薄暗い室内に、重なるようなふたつの人影が見えた。


 男の方には、見覚えがあった。いつだったか教師の採点に不満をぶつけていた令息。テラスで一度請われ、戦術盤の相手をしたことがある子爵家の令息。



 女の髪がさらりと揺れ、その顔が露わになる。




「……カッセル嬢?」




 声に出したつもりはなかった。











 イザベラに呼ばれたのは昨日のことだった。

 用件を聞いた瞬間、ジャック・ベルモンは内心で盛大に舌打ちをした。



(面倒な……)



 だが断れる立場でもない。ドラグネス侯爵家の令嬢に逆らって得することは何もなかった。




「カッセル家の娘に近づいて。ユリウス様に見えるところで」



 それだけ言って、イザベラは扇で口元を隠した。意図は明白だった。



(まあ、男爵家の令嬢なら婿の口もあるか)



 そう思いながら翌日、ジャックはロシーナを探した。



 ロシーナを見るのはテラス以来だった。


 以前、テラスで公爵令息との手合わせに割り込み、見栄を張ろうとして返り討ちにあった。そのとき苛立ちの中で目に入ったのが彼女だ。

 女のくせに小賢しいと思ったはずなのに、改めて見ると印象は違った。

 噂通り地味で泥臭いが、顔立ちは整っている。落ち着いた物腰も、その体躯も悪くない。




「おい、そこの。ハリス講師がお呼びだ。ついてこい」



 こちらは子爵家。相手が男爵令嬢なら従うだろうとわかっていた。

 案の定、ロシーナは一瞬だけ表情を曇らせたが、頷いた。

 教室に入ると、ジャックは扉を閉めた。




「あの、ハリス先生は……?」




 ジャックは何も答えない。


 ロシーナの顔色が変わった。

 



「どういうつもりでしょうか」


「ちょっと話がしたかっただけだ」




 教室から出ようとするロシーナを少しずつ窓際へ追い込みながら、ジャックはわずかに身をかがめた。

 ロシーナの退路を塞ぐように、距離を詰める。




「お前、カッセル家の跡取りだろう。悪い話じゃないと思うが。俺はベルモン子爵家の三男で──」


「近づかないでください!」




 ロシーナの鋭い声に鼻白む。誰かに聞かれたらどうするんだ。もし悲鳴でもあげられたら……。



 ジャックは慌ててロシーナの口を塞ごうとさらに一歩近づいた。

 その瞬間だった。

 視界が白くなった。

 鈍い衝撃。鼻の奥に痛みが広がる。



「っ……!」



 膝から崩れると、床に定規が落ちた。見上げるとそこに、ロシーナはもういなかった。開いたままの扉の向こうで、走り去る足音が遠ざかっていく。



(……っくそ!)



 ジャックは床に座り込んだまま、しばらく動けなかった。











 廊下を走りながら、ユリウスの頭は沸騰していた。


 イザベラの声が耳の奥に残っている。



「あら、まあ。殿方と二人きりだなんて、はしたない」



(ふざけるな)



(彼女があの男とだと?)



 走りながら、ユリウスは自分の内側に初めてまともに向き合った。


 怒りではなかった。

 いや、怒りもあった。だがそれより先に、別の感情が全てを塗り潰していた。


 駆けつけてどうしようというのか。

 自分でもわからないまま、沸き立つ衝動が二本の脚を動かし続けている。



 ロシーナのそばに男がいる。

 それだけで、こんなにも。



 実際あの男の方が彼女の事情には当てはまるのではないか。男は確か三男だったはずだ。彼女があの男を受け入れてしまったら?


 それはユリウスにとってひどく耐え難いことに思えた。


 そうだ。


 耐え難いことなのだ。


 だから今、ユリウスは廊下を全力で駆けている。


 認めた瞬間に、迷いが消えた。

 

 走った先の教室の扉を開けると、床に座り込む男と、落ちた定規があった。


 ロシーナの姿はない。


 ユリウスは男を見た。鼻を押さえて、情けない顔をしている。



「自力で……逃げたのか」



 落ちていた定規を拾い上げる。年季の入った、測量用の大ぶりな定規。

 これでこの男を……?



「……っ」



 その光景を想像し堪えきれず、ユリウスは声を上げて笑い出した。

 廊下に響くほど笑ったのは、いつぶりだろう。

 男が唖然とした顔でこちらを見ている。


 ユリウスはようやく笑いを収めると、男を一瞥する。男の肩がびくりと震えた。



「お前では、無理だ」



 ユリウスはそれだけ言い放ち、教室を出た。


 さて、彼女はどこにいるだろうか。


 行きそうな場所を、しらみつぶしで探したい気分だった。



 早くロシーナに会いたいと、そればかり考えていた。





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