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土を読む男爵令嬢のせいで、公爵令息は完璧ではいられない──我が家が国家機密だなんて知りませんでした  作者: 中田かすり


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第二十九話 異物


 


 新作の赤だった。


 侍女が慎重に口紅を引いていく。

 細い筆先がわずかに揺れた。



「……申し訳ございません」



 慌てて謝罪する声。

 イザベラは怒らない。

 ただ鏡越しに侍女を見た。

 それだけで、侍女の肩がさらに震える。

 鏡の中の自分へ視線を戻す。


 悪くない色だった。


 けれど。

 どうにも気分が晴れない。


 鏡に映る自分が、ゆっくりと首を傾げる。



「あの子、領地へ帰ったの?」



 そばに控える従者が即座に答えた。



「翌朝には退学届を提出しております」


「そう」



 あの女をなんとかしろと命じた令嬢。

 名前など覚えていない。

 必要もなかった。

 イザベラにとっては役目を終えた駒の一つに過ぎない。

 もう二度と会うこともないのだから。


 それにしても。

 唇の端がわずかに下がる。



「随分とつまらないことをしたものね」



 小さく呟く。



「あの人、何も変わらないじゃない」



 従者は何も答えない。

 答えを求められていないことを知っている。

 イザベラは椅子にもたれた。


 ロシーナ・カッセル。

 まるで何事もなかったかのように、今日も学園にいる。



「ねえ」



 鏡から視線を外さないまま尋ねる。



「カッセル男爵家については?」


「現在調査中です」


「遅いわ」



 声は穏やかだった。

 従者の顔色が変わる。



「申し訳ございません」


「あら。怒っているわけじゃないのよ」



 イザベラは微笑んだ。


 男爵令嬢。

 地方貴族。

 実務科。

 どこをどう見ても取るに足らない。

 それなのに。

 ユリウスは彼女を見ている。


 鏡の前の口紅を、侍女に差し出した。



「これ、あげるわ」



 受け取ろうと侍女が手を伸ばした瞬間。



「貴女、明日から来なくていいわ」



 感情の抜け落ちたような声が部屋に響いた。

 侍女の顔から血の気が引く。



「い、イザベラ様……」


「下がって?」



 イザベラが侍女の方を見ることは、二度とない。

 もう、必要ではないからだ。


 侍女が震える足で部屋を出ていく。

 扉が閉まる音を聞きながら、イザベラは鏡越しに従者を見た。



「お父様は?」


「書斎におられます」


「そう。……お父様にも、少しお仕事をしていただかないと」



 イザベラはゆっくりと立ち上がり、鏡から視線を外した。


 書斎へ向かう廊下は静かだった。

 足音だけが、規則正しく響く。


 最近、ユリウスと過ごす時間が減っていた。

 昼食の時間になってもカフェテリアのいつもの席に、彼は現れない。

 放課後も、気づけば姿を見かけなくなった。

 以前なら、ありえないことだった。


 ユリウス・フォン・ランベルト。


 少し退屈に感じるほど規則正しく行動する人だった。

 誰に対しても同じ対応。

 誰よりも整っていて、誰よりも正しく、誰よりも完璧な人。

 イザベラをその他大勢の取り巻きたちと同等に扱うことは不満だったが、それも今だけだ。


 完璧なユリウスの隣こそが、イザベラの立つ場所だ。美しいユリウスの隣で微笑む自分。これ以上の完成形などない。


 イザベラは指先をそっと握る。

 なのに最近の彼は、少しだけ違う。

 そしてその原因は、ひとつしか思い当たらない。


 ロシーナ・カッセル。


 実務科の地方男爵の娘。

 本来なら、視界に入れる必要すらない存在。

 それなのに。

 ユリウスは一体どうしたというのか。

 それが、ただ不愉快だった。

 あれは彼にとって不要な異物のはずだ。

 イザベラは静かに息を吐く。

 だから、戻さなければならない。

 余計なものが混ざる前の状態へ。

 正しい位置へ。

 書斎の扉が見えた。


 取るに足らないこと。

 異物を取り除けばいいだけのことだ。

 ユリウスをもと通りの完璧な姿へ。

 それが一番自然で、美しい形なのだから。


 イザベラは微笑み、扉へ手を伸ばした。





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