第二十八話 ヴィクター・サヴァラン
ロシーナとラウンジで話した日から数日後。ユリウスが学園から戻ると、自室のソファから組んだ脚がはみ出しているのが目に入った。
見慣れた光景だった。
前触れもなくこの部屋に出入りするのは、彼くらいのものだ。
「遅かったね、ユリウス」
読んでいた本を傍らに置くと、ヴィクターが当たり前のようにティーカップに手を伸ばす。
そういえば、この部屋にヴィクターが訪れるのはいつぶりだったか。いつも自室のようにくつろいでいた友人の姿が、遠い記憶のように感じられる。
ここ数日は特に温室と蒼玄草の件で忙しく、自室に戻るのも夜更けになることがしばしばだった。
そして今日、温室を荒らした令嬢の聴取が終わった。だが、肝心の蒼玄草を持ち出した人物だけは、最後まで手掛かりが掴めなかった。
そういう日に、現れたのが目の前の男だ。
「ヴィクター」
ユリウスは扉を閉め、そのまま歩み寄る。
「蒼玄草、掘り起こしたのはお前だな」
問い詰める意図はない。ただ、確かめたかった。
ヴィクターは手元のカップを丁寧にテーブルへ戻した。
「誤魔化されなかったかあ」
その言い方は、いつもの軽さを装いきれていないようだった。
どこか、腹を括ったようなすっきりとした響きが混じっている。
「……やっぱり、あの失言かな」
穏やかに微笑む。その顔に、もはや取り繕う気配はない。
「なあ、ユリウス。うちの家のこと、どう思ってる?」
唐突な切り出し方だったが、この場で無関係な話をするわけもない。話すつもりで、ここに来たのだろう。
「外交に秀でた名家、だな」
「だよな。まあ、それで間違ってない」
ヴィクターは軽く笑う。
「でもさ、それだけだとちょっと足りないんだ」
ユリウスは何も言わずに続きを待つ。
「うちは“情報”を扱ってる」
隠していたなんて嘘のように、こともなげに言う。
「表では侯爵家として外交をやってる。でも、本命はそっちじゃないんだ」
少しの沈黙が、部屋の空気を変える。
「……諜報か」
「そ」
さすがユリウス、そう言って長い髪を弄びながら続ける。
「ほら、僕、次男だし。小さい頃からそっち叩き込まれててさ。学園内のことなんて特に、僕の持ち場だから……」
これまでの言動や振る舞いを思い返せば、不自然な点はなかった。むしろ合点がいく。
見慣れていたはずのヴィクターの笑みが、今日はひどく心細く見えた。
昔から、捉え難い友人であった彼の、真実の顔。
「蒼玄草も、すぐに報告すべきだったんだ」
「そうか」
「これは、そのせい」
指差したのは父親に殴られたと言っていた左頬。
もう腫れは目立たなかった。
「運んだのは僕だよ。もっと早くに決断してたら、ロシーナちゃんをあそこまで落ち込ませずに済んだかもしれない」
「そうか」
「ねえ、ユリウス」
「なんだ」
「……君に、ずっと隠してたんだ。何か言ってよ」
ヴィクターの膝の上で、握った拳に力がこもる。
怒りなのか失望なのか、それとも別の何かなのか、ユリウスの態度を測りかねているようだった
ユリウスが空のカップに目をやるのと同時に、扉がノックされた。
サイモンが、何事もなかったかのようにティーポットを手に現れる。
「ヴィクター様、そろそろおかわりのころでは?」
その静かな声に、ヴィクターの眉が下がる。
「サイモン、いただくよ」
張り詰めていた部屋の空気が和らぎ、サイモンがカップに紅茶を注ぐ音だけが、かすかに聞こえた。
ふと肩の力を抜いたヴィクターに、ユリウスが口を開く。
「私は公爵家を継ぐ」
突然なにを、と言う顔でヴィクターがユリウスを見る。
「知ってるよ」
「だから、なにも変わらない。お前も、私も」
いつも冗談ばかりのヴィクターが、時折見せる硬い表情や、忠告、迷い。
それらが、他ならぬユリウスを思ってのことだと、気がつかないほど愚かではないつもりだ。
「お前は、お前の役目を果たせばいい」
ユリウスにはこれ以上なにも、言うべきことはなかった。
ヴィクターは湯気の立ち昇るカップをじっと見つめていた。
「なんだよそれ。格好良すぎるじゃないか」
笑いながら言った声が上ずり、鼻をすする音が混ざった。ユリウスはそれに、気がつかないふりをする。
ヴィクターがカップをひと思いに傾け、あち、と呟いた。




