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土を読む男爵令嬢のせいで、公爵令息は完璧でいられなくなる──我が家が国家機密だなんて知りませんでした  作者: 中田かすり


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第三話 美しいだろ、彼女は

 陽光が赤みを帯び、テラスに落ちる影が長く伸び始める。

 放課後の喧騒も、今はもう遠い。

 ユリウス・フォン・ランベルトは、一人、戦術盤の前に立ち尽くしていた。



「……擬岩、か」



 ぽつりと漏れた独白が、無機質な石床に吸い込まれる。


 彼の指先が、微かに傾いたままの模型をなぞった。


 精巧に作られたはずの戦術盤。軍事学の教官さえ「完璧な布陣だ」と称賛したその陣形が、今は令嬢が指摘した事実によって、ひどく滑稽な砂遊びのように見えていた。



(あの時、彼女の目には、この盤がどう映っていたんだ……?)



 ユリウスは視線を盤から上げず、傍らで退屈そうに茶を啜っていた友人へと声をかけた。



「おい、ヴィクター。おまえ、この間の定期試験の上位者の成績一覧持ってるか?」



「持ってるけど、一体どうしたのさ?  どうせ自分が首席だからって、今まで二位以下の名前なんて、視界に入れたこともなかったじゃない」



 ヴィクターが、呆れたように肩をすくめる。



「……いいから、よこせ」



 短く、拒絶を許さない声。ユリウスの視線は、依然として盤上の一点に縫い付けられたままだ。



「もーう! 人使いが荒いんだからあ」



 ヴィクターは芝居がかった溜息をつくと、テラスの扉を軽く二度、指の背で叩いた。


 それだけで、影のように控えていた従者が音もなく姿を現す。ヴィクターは顔も向けず、ただ短く「直近の序列、上位十名の詳細を」とだけ告げた。



「……畏まりました」



 従者の返答は、感情を排した、ひどく無機質なものだった。


 数分もしないうちに、従者が革製の書類ケースを携えて戻ってくる。

 彼はヴィクターに一度、次いでユリウスに深い一礼を捧げると、主人の手元ではなく、ユリウスの前のテーブルへ、滑るような手つきで数枚の羊皮紙を並べた。



「入学以来の全記録、および直近の定期試験における科目別得点表でございます。上位十名については、各教官の寸評も付記しております」



 主人の友人であるユリウスが何を求めているのか。

 先ほどのテラスでの一件を見ていたかのような、隙のない手際。

 ヴィクターは、それがあたかも当然の作法であるかのように、片手でひらひらと従者を下がらせた。



「はい、どうぞ。君の知りたい答えが、あるといいねえ」



 その声には、親友の完璧な世界を揺るがした異物への、隠しきれない興味が滲んでいる。


 ユリウスは、ヴィクターの含みのある視線を振り払うようにして、一番上の羊皮紙──直近の定期試験の全科目得点表を手に取った。


 そして、無造作に並ぶ名前の列を上からなぞり、ある一点でその指を止めると、わずかに目を見張る。そして次々に遡るように数枚を確認したのち、深いため息をひとつ突いた。


 ヴィクターが覗き込むと、ユリウスはその、ある部分を指で叩きながら言った。



「ロシーナ・カッセル。……彼女、地質学と魔道測量、この二科目だけは入学以来、常に満点だ」



「まさか!」



「いや、俺も正直、科目ごとの点数など確認してなかった。……まいったな。自分が本当に傲慢な人間に思えてくる」



 彼女はこの模型の地形を一目見て、そこに潜む「擬岩」という致命的な欠陥を見抜いた。


 ユリウスの軍が奇襲を仕掛けるために身を隠していた丘。勝利への最短ルートだと確信していた場所。相手の侯爵令息の拙い動きに少し飽きているところでもあった。


 己の驕りを叩きつけられたような気分である。


 同時に、自分の空論の戦術の根底を暴かれた瞬間、彼は生まれて初めて、戦場の生々しい風に吹かれたような気がしていた。


 ユリウスにとって先ほどの遊戯時間は何の感情も生み出さない「無」の時間だった。


 公爵家の次期当主として、次代を担う令息たちとの関係を築くための義務。

 相手が自分におもねり、顔色を窺っているのが手に取るようにわかるからこそ、それも致し方ないとは理解しているものの、その時間は退屈で、ひどく苦痛だった。


 ただし例外もいて、遊戯に混ざるわけでもなく、少し離れた席で優雅にお茶を飲む者もいる訳だが──ユリウスがチラリとヴィクターに視線を送る。



「ん? どした?」



「いや」



「俺がいい男だからって嫉妬しちゃう?」



「だまれ」



「ふふ」



 優雅にカップを傾けたまま、食えない笑みを崩さないヴィクターを眺めながら、この捉えようのない男について考えるのをやめた。



「それにしても彼女、ロシーナちゃん。噂なんて当てにならないねえ」



「どういうことだ?」



「完全防備の土まみれ令嬢なんて言われてるから、心ない令息たちからは、人前に出れないような姿なのだろう、なんてひどいこと言われちゃっててさあ。まったく──」



「美しいだろ、彼女は」



無意識だった。ふいに言葉が口を突いて出た。



 「えっ!?」ヴィクターが場にそぐわない大きな声を出す。



「ユリウス!? どうしたの!? 初めてじゃないか! 君が女性を褒めるだなんて!」



「いや、そんなはずは……」



「そんなはずあるよ! 寄ってくる女性たち片っ端からフってるくせに!」



「人聞きの悪いことを言うな!」



 ヴィクターを諌めはしたが、ユリウスにとて自覚はある。

 生まれた時からこの顔と身分のせいで、女性たちの粘つくような、寄りかかるような不快な視線を感じながら生きてきた。学園に入ってからは、そこに権力への欲が加わり、さらにひどくなった。


 穏便に、かつ徹底的に彼女たちを遠ざける方法に、彼はいつも苦慮していたのだ。


 だが。


 先ほどの令嬢の姿を思い出す。その瞳には、打算も、媚びも、熱狂もなかった。


 化粧気のない涼しげな目元で、豊かな睫毛が縁取るように揺れていた。美しく真っ直ぐなその髪と、凛とした姿勢。そして、その少し小さな口から飛び出す、一切の淀みのない知識や理論。


 それらすべてが彼女の纏う雰囲気を、不可侵なほどに気高く成立させていた。



「やっぱり美しいじゃないか」



 呟いたあと、しまったと思ったが、幸いにもヴィクターには聞こえなかったようだ。

 ユリウスは、ポケットの中に忍ばせたハンカチに触れた。 白地に、少し明度の低い白い糸で、控えめに、けれどはっきりと主張するように刺された家紋。



(……まるで、彼女そのものだな)



 こちらを気にしていない様子だったヴィクターが、立ち上がりながら不意に言った。



「彼女、実家の跡を継ぐ予定らしいよ」



「なんだ突然」



「ユリウスも跡取りでしょ?  しかも公爵家! 彼女の身分じゃ、君の隣に並ぶのは、かなり難しいと思うんだよねえ」



「なんの話をしている。 私はただ、ハンカチを返すだけだ」



「ふーん。それならいいけどお」



「いい加減にしろ」



 そう言い捨てて立ち上がり、二人でテラスを後にする。


 出口へ向かう際、ふと欄干から下を見下ろすと、彼女が土壌調査をしていたであろう庭園の緑がまもなく沈む夕日に薄く照らされていた。

 そこで、ヴィクターが彼らしくない、真面目な声色で言った。



「ユリウス。……だめだよ」



 ユリウスは歩みを止めず、吐き捨てるように応えた。



「……だまれ」


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