第四話 ハンカチの行方、正体不明の草
「ハンカチ、どうしよう……」
ロシーナは廊下で立ち止まり、深くため息をついた。
ここ数日、そのことばかりが気になって仕方がない。けれど、あの高貴な面々が集うテラスに、下位貴族の自分が勝手に入り込むわけにもいかない。
母が贈ってくれた大切な品だが、もうあきらめてしまおうか。
母なら、なくしたと言えば「もう、ドジねえ」と笑って許してくれるだろう。
けれど、胸の奥に刺さった小さなトゲのような違和感は、どうしても消えなかった。
考え事をしながら中庭を歩いていると、鉢植えの手入れをしていた学園の庭師が、ふと顔を上げた。
「おや、熱心なカッセルのお嬢さんじゃないか。今日もいつもの調査をする予定なら、北の温室裏へ行ってみるといい。少し足元は悪いが、この時期、珍しい草が芽吹いているはずじゃ」
「珍しい草……ですか?」
「ああ。ワシもこの仕事は長いが、こんな街中で見かけることはないはずの草でな。不思議なもんじゃよ」
数日後。庭師の言った通りの場所に、それは生えていた。
まだ芽吹いたばかりのその葉は、驚くほど肉厚で、表面を細かい灰白色の産毛がびっしりと覆っている。
その柔らかな毛の隙間から覗く葉の地色は、根元に向かうほどしっとりとした灰緑色の深みを増していた。
「初めて見るわ。なんという植物なのかしら……」
ロシーナは膝をつき、夢中で観察を始めた。
指先でそっと触れれば、多肉質な葉の弾力と、産毛のベルベットのような感触が伝わってくる。
そのあまりの瑞々しさと、どこか現実離れした色彩に魅了され、時間の経過すら忘れて没頭していた。
そんな彼女の背後から、軽やかな足音が近づいてきた。
「やあ、ロシーナちゃん」
相変わらず掴み所のない笑みを浮かべたヴィクターだった。
「先日のテラスではありがとね。……で、今日は何をしているの? ここはご令嬢が入り込むようなところじゃないよ?」
「あ、いえ……あの、ここに珍しい植物があると伺って、見にきたのです」
「珍しい植物……、ん? これは……?」
ヴィクターが足元を見つめたまま黙り込む。瞬きを忘れたその瞳に、ロシーナの胸がざわめく。
「あの……?」
「あ、ああ。これさ、あんまり深入りしない方がいいかもよ?」
「サヴァラン様、なにかご存知なんですか?」
「んー、知らない」
ヴィクターは惚けたように微笑んだまま、ふいに身を屈めた。
視界のすみで、ヴィクターの淡い蜂蜜色の髪がさらりと落ちた。
「でも、物騒な噂はあるよ。カッセルのお嬢さんなら、知ってるかと思ったけど」
「え……」
突然の家名に思わず体の動きが止まった。
ヴィクターの顔から冗談めいた気配は消え、底の見えない静かさだけがそこにあった。
「……だから、気をつけて」
「……は、い」
ロシーナがそう返した瞬間、ヴィクターはもういつもの笑みを浮かべていた。
「ごめーん! 驚かせちゃったね。……そうだ、ロシーナちゃんのハンカチの行方教えるよ」
「え?」
「ユリウスが持ってるよ。自分で返すとか言っておいて、ずいぶん苦戦してるみたいだけど」
ふふ、と笑いながら去っていくヴィクターの背中を見送り、ロシーナは立ち尽くしていた。
「ランベルト様が、私のハンカチを……? なぜ?」
高位貴族の令息にとって、ロシーナのハンカチなど気に留める必要がないものだ。たとえ返すにしても、従者に命じて届けさせれば済む話である。
公爵家の嫡男が、わざわざ自分の手元に留め、自力で返そうと苦戦する理由など、この学園のどこを探しても見当たらないはずだった。
学園中の羨望を一身に集めるユリウス・フォン・ランベルトが、よりにもよって、カッセル家の紋章が入った使い古しのハンカチを持っている。
想像してみようとしても、あまりのミスマッチさに脳が拒絶を起こした。
彼は今、あの白磁のような指先で、ロシーナのリネンを握っているというのか。……いや、まさか。
(苦戦しているって、どういう意味……?)
寮の自室に戻ってからも、ロシーナの耳の奥でヴィクターの言葉が反響し続けていた。
返すのに苦戦する、とはどういうことだ。届け先を忘れたのか。それとも──。
ここでロシーナは、はたと気がついた。
(……そうだわ。私……そもそも名乗ってないじゃない!)
あの日、一番低位であるロシーナから口を開くわけにもいかず、名を告げる機会を完全に逸していた。
その後は土の話に夢中になってしまい、その致命的な欠落をすっかり忘れていたのだ。
「苦戦するはずだわ……そもそもどこの誰のものかさえ、わからないんだもの!」
ロシーナは、使い込まれた木製の学習机にがばりと突っ伏し、両手で頭を抱えた。
公爵家ともなれば、他人の持ち物を安易に捨てるわけにもいかず、さりとて持ち主もわからず、高潔な彼は扱いに困り果てているに違いない。
「……なんて、迷惑をかけてしまったのかしら」
申し訳なさと、いたたまれなさで、顔がカッと熱くなる。
母が持たせてくれた大切な品が、ユリウスの日常に、処分不能な異物として入り込んでしまったのだとしたら、これ以上の不徳はない。
「──……ナ! ……シーナ!」
ロシーナにようやく声が届き、ほっとしたようにマリーが微笑んだ。
「もう、シーナったら。どうしたっていうのよ? 部屋に戻ってきてからずっと変よ?」
「マリー……」
「悩みごと? 私でよければ話聞くわよ?」
「マリー! どうしよう、私……とんでもなく失礼なことをしてしまったかもしれない!」
ロシーナは、自分より少し背の高い親友の腰に、しがみつくようにして抱きついた。




