第二話 土の声は、まだ遠い
テラスの扉を閉めたあと、廊下を足早に歩いていたロシーナは寮にある自室に戻ってすぐに頭を抱えた。
「やってしまった……」
机に額を軽くぶつけるようにして、しばらく動けない。
『いいかい、ロシーナ。謙虚になれ。知識に溺れてはいけないよ』
父の声が、真っ先に浮かぶ。
思い出すのは言葉だけではない。
雨の中、長靴で地面に膝をつき、何もない荒地の傾きを見つめていた背中だ。
紙の上ではただの数字になるものを、父は“土の機嫌”として読む。
──土は喋るんだよ、ロシーナ。
あのときの言葉は、冗談ではなかった。
土は沈黙しているようで、実際にはずっと語っている。
重さや湿り気だけでもない。
そこにあるのは層だ。
流れ、停滞、混入、そして痕跡。
かつてそこに何があったのか。
何が流れ込み、何が置き去りにされたのか。
土はそれを、ただ隠し持っている。
それを聞き分けるのが、父の、カッセル男爵家の仕事だ。
ロシーナはゆっくりと目を閉じる。
(私は、まだ聞き取れていない)
あの背中には、まだ遠い。
だからこそ、今日の自分の言葉は、その途中で零れ落ちたものだった。
技術は誇るものではない。
ただ積み上げた結果だけが残ればいい。
父ならそう言うだろう。
きっと困ったように笑って。
今日の出来事が蘇る。
あの場で使われていたのは、実習用に学園が整備した魔導戦術盤だった。
地形を縮尺で再現するためのものだが、時間経過による変質を防ぐため、環境そのものが固定されている。土は乾かず、腐らず、状態だけが保たれていた。
(まさか庭園の土が使われているなんて──)
触れるのも憚られるほど高価な駒を届けた先に、高位令息が数名。
もともと実務を学ぶクラスにいるロシーナは、彼らとはほとんど接する機会はない。
しかし、庭園にいたロシーナに声を掛けてきたヴィクター・サヴァランのことは、会ったことがなくともよく知っていた。
寮の同室で、熱烈な彼の信奉者であるマリーから、耳にタコができるほどその魅力を叩き込まれているからだ。
『シーナ。サヴァラン様はね、あの長い髪を片耳の下で無造作にまとめて、琥珀色の瞳で涼しげに微笑む姿が最高なのよ? ……でもね、一番たまらないのはそこじゃないの』
マリーはうっとりとしたまま続けた。
『あの方は、いつも柔和な笑顔で、誰に対しても気軽にお声がけなさるでしょう? でも私。気がついてしまったの……あの方、目だけは、絶対に笑っていないのよ! あの温度のない瞳に射抜かれたら、もう、ぞくぞくするわ……!』
先ほどテラスで笑っていたヴィクターの瞳の輝きにどこか既視感を覚えていた。
確かに目が笑っていないと評されるのも頷ける。しかしあれは。
──あれは、地質学を学ぶロシーナにとって、父の仕事ぶりにも似たものだった。ただ眺めているのではなく、対象の在り方そのものを静かに拾い上げていくような視線だった。
「やっぱり将来国の中心となられる方たちは、すごいわね」
そしてそんな高位令息たちの筆頭。ヴィクターの隣にいた、あの高貴な令息。
ユリウス・フォン・ランベルト。
対面したのは初めてである。その美しい蒼い目に吸い込まれるように、聞かれるままに余計なことを話しすぎてしまった。
筆頭公爵家ランベルト家嫡男であり、次期宰相とも呼び声が高い。そのためヴィクター以上に学園中の注目を浴び、その周囲はいつも華々しい高位貴族たちに囲まれている。そのうえ定期考査ではいつも首席。雲の上の存在どころではない。
そんな彼に突然話しかけられて、動揺したのを隠そうと口が勝手に喋ってしまった。
緊張すると表情がなくなる。その分自分の頭の中が騒がしくなり、大好きな土のことが早口で飛び出してくる、ロシーナの悪い癖。
父と母なら笑って「ロシーナ、落ち着きなさい」と言ってくれるが、ここではそうじゃない。このままでは誰も縁談のお相手になんてなってくれないのではないか、とついこの間も反省していたというのに。
でも、ロシーナはふと気がつく。
「ランベルト様、話を聞いてくださっていたわね……」
ロシーナの物言いに激昂した令息の反応が当然なのである。にもかかわらず、彼はロシーナの話を最後まで聞き、盤を見つめながら考え込んでいるようだった。そのまま辞してしまったが、少なくとも話を遮らずに最後まで聞いていたことは事実だった。後悔に混じって少しの充足感が胸の奥で燻る。
──けれど。
「あ!ハンカチ……!」
またしても自分の失態に気づく。
テラスに忘れてきてしまった。
入学祝いとして母からプレゼントされたリネンのハンカチに、ロシーナ自身が家紋を刺繍したものだった。
「どうしよう。取りに……戻る……?」
だがロシーナには、あの高位令息だけの空間に、もう一度足を踏み入れるなど、想像することさえ難しかった。




