第一話 その丘は、崩れる
人の気配もまばらな王立学園の庭園には今日も、風変わりな姿をしたひとりの令嬢がしゃがみ込んでいた。
手元のスコップを傾け、慎重に採取しているのは土。指先で崩し、その感触を確かめるように、わずかに目を細める。
華やかな刺繍の施された制服は、厚手のエプロンドレスで覆われ、つばの広いクロッシェを深く被り、顔を影に沈めていた。
地表の湿度、わずかな沈下。彼女にとって、ここは学園というより観測対象だった。
「あら……?」
ふと、茂みの奥に異質な輝きを見つけた。
手を伸ばして拾い上げると、それは精巧に彫り込まれた銀製の重装騎士だった。
(こんな高価なものを放っておくわけにもいかないけれど……困ったわね。どなたの落とし物かしら)
彼女が困惑していると、頭上から、この場に不釣り合いなほど陽気な声が降ってきた。
「おーい、そこの令嬢! すまないが、それをこちらに届けてくれないか?」
見上げると、そこは高位令息のみが立ち入りを許される特別テラスだった。
欄干から身を乗り出し、親しげに手を振っているのはヴィクター・サヴァラン。
ロシーナは溜息を飲み込んだ。
だが無視するわけにもいかず、彼女は汚れたグローブを脱ぎ、清潔なハンカチで銀の駒を丁寧に包む。エプロンドレスのボタンに手を掛け、重い足取りでテラスへと向かった。
そのころテラスでは、重苦しい沈黙と優雅な空気が、奇妙に混ざり合っていた。
一人の令息が真っ青な顔で立ち尽くし、その向かいでは、陽光を背負ったユリウス・フォン・ランベルトが、冷徹なまでに美しい手つきで駒を整えていた。
「──盤を叩いて駒を落とすなんて、感心しないな。勝利も敗北も、等しく盤上で完結させるべきだ」
ユリウスの言葉には、一切の慈悲がなかった。
盤上には、彼が冷酷なまでに追い詰め、壊滅させた敵軍の残骸が散らばっている。
「ユリウス、そう怒るなよ。下に令嬢がいて助かった」
ヴィクターが笑いながら言うと、ユリウスは無関心に、だが鋭い視線を入り口に向けた。
「……令嬢? 誰だ、こんな時間に庭をうろついているのは」
「ロシーナ・カッセル。ほら、例の噂の……カッセル男爵家の娘だよ」
(カッセル──)
ユリウスの脳裏に、筆記試験学年二位という成績を取りながら、常に地面を這い回っているという「変人」の噂が浮かんだ。
彼の完璧な世界には、理解し難い存在。
ユリウスが厄介事に巻き込まれるのはごめんだとばかりため息をついた直後、テラスの扉がノックされた。
現れたのは、先ほどまでの風変わりな装いを微塵も感じさせず、汚れ一つない制服に身を包んだ一人の淑女だった。
背筋を凛と伸ばし、落ち着いた足取りで歩み寄るロシーナ。
テラスを支配していた重い空気に、かすかな湿気を含んだ風が混ざる。
ロシーナ・カッセルは、一度だけユリウスへ、次いでヴィクターへと、完璧なカーテシーを捧げた。
ユリウスは無言で彼女を注視していた。
噂に聞く「泥まみれの次席」の姿を思い浮かべていた彼の目に、彼女の理知的な瞳はどうしようもなく鮮烈に映った。
一方のヴィクターは、椅子に深く腰掛けたまま、値踏みするような視線を彼女に注いでいる。
ロシーナは内心戸惑いながらも、彼らが口を閉ざしているため、ただ静かにヴィクターへ歩み寄り、ハンカチで丁寧に包んだ銀の騎士を差し出すしか出来なかった。
ヴィクターがそれを受け取ろうとした、その刹那。
彼女の視線が、ユリウスの傍らで流れる模型の川に吸い寄せられた。
「……擬岩?」
それは、ほとんど無意識に漏れた呟きだった。
だが、静まり返った場において、その言葉はあまりに異質に響く。
「今、なんと?」
ユリウスの声が、低く鋭く彼女を射抜いた。
ロシーナはハッとして顔を伏せ、一歩下がった。許しなく口を開いた己の失態に、頬が微かに強張る。
「し、失礼いたしました。独り言にございます。どうかご容赦ください」
「いいから答えろ。今、なんと言った?」
拒絶を許さぬ、絶対的な命令だった。ロシーナは逃げ場を失い、ゆっくりと視線を盤へと戻した。
「……擬岩と、申しました」
その場にいた全員が耳慣れぬその響きを、咀嚼しきれずに顔を見合わせる。
ユリウスの向かいで負けを喫していた令息が、苛立ちをぶつけるように叫んだ。
「何を言うかと思えば! 貴様、訳の分からないことを言って我々の戦術を愚弄するのか……!」
「控えろ」
ユリウスの短く、だが地を這うような低い声がテラスを支配した。激昂していた令息が息を呑み、場に冷徹な静寂が戻る。
ユリウスはロシーナから目を離さず、鋭い視線で問いかけた。
「──説明しろ。なぜこれが擬岩だ」
「……この場所は、一見強固な丘に見えますが、おそらくその下の土壌が脆くなっています。これだけの重装騎士を集中させれば、地盤はその重さに耐えられません。こちらの軍は……戦う前に、地盤沈下に巻き込まれます」
「なっ……!!」
令息が絶句する中、ヴィクターが面白そうに目を細めて口を挟んだ。
「ロシーナちゃんだっけ? さすがに驚いたな。いくら賢いと噂の君でも、この作り物の盤からそんなことまでわかるのかい?」
挑発にも似た問いに、ロシーナの本能が動いた。
一瞬だけユリウスの顔色を窺ったが、その沈黙を許可と受け取り、盤上の土の表面にためらいなく指先で触れる。その感触を確かめると、彼女はポケットから小さな硝子瓶を取り出し、テーブルに置いた。中には、彼女が先ほど採取したばかりの、湿った土が入っている。
「……この盤には、先ほど私が庭園で採取した土と同じものが使われているはずです。この土は水分を極めて保持しやすい。……盤に施されたこの『川』が、既に内部から地盤を緩めています。土は──意外と饒舌なんです」
ユリウスが自分の指先を盤に押し当てると、完璧な布陣を敷いたはずの丘が、騎士の重みでじわりと川の方へ傾き始めた。
静まり返ったテラスには、傾き始めた模型の軋む音だけが響いていた。
ロシーナは自らの言葉が投じた一石にこれ以上触れるつもりはないようで、ただ深く頭を下げた。
「……過ぎた物言い、平にご容赦ください。失礼いたします」
彼女がそれから顔を上げることなくその場を辞すと、扉が閉まる音と共に、外の湿った土の匂いが消え、再び高貴で無機質な静寂が戻る。
ユリウスが崩れかけた丘の上に留まっている自軍の重装騎士をじっと見つめていると、そのひとつがついに、ころりと滑り落ちた。
「……完敗だな」
ぽつりと漏れた独白。その声には、屈辱よりも正体不明の熱が混じっていた。
ふと、彼の視界に白い布が映る。先ほど彼女が銀の騎士を包んでいたハンカチが、テーブルの隅に置き去りにされていた。
ヴィクターが、目ざとくそれに気づいて手を伸ばす。
「おや。忘れ物だ。……僕が返しておこうか? 次席殿は、今ならまだ階段のあたりだろう」
ヴィクターの指先が布に触れる直前。
ユリウスの手が、それを制するように上から押さえる。
「いや、いい」
ユリウスがハンカチを掌の中に収めた。
ヴィクターは、伸ばした手を止めて意外そうにユリウスの横顔を見つめた。
他者への関心が極めて薄く、ましてや女性に対しては特に懐疑的な友人が、ロシーナの残したそれを、自らの懐へ仕舞い込んでいる。
ユリウスの視線は、既に扉の向こうを見据えていた。
「……私が、直接返す」
その言葉は、彼自身に言い聞かせるような誓いだった。
完璧だったユリウス・フォン・ランベルトの世界に、ロシーナという一人の鮮烈な知性が、静かに波紋のように広がっていった。




