第二十六話 初めてみた顔
王の執務室は、思っていたより静かだった。
書類の山の奥で、王は軽く片手を上げる。
「サヴァラン」
サヴァラン侯爵は慇懃に頭を下げると、封書を一通差し出した。
王はそれを一瞥し、すぐには開かない。
「例の草か?」
「アルケミア研究院で小動物実験を始めています」
王はそこでようやく視線を上げた。
侯爵は表情を変えずに続ける。
「学園で発見された個体です。先日の満月の夜に、開花が確認されました。それ以外の存在は未確認」
「ふむ」
王が書面に目を走らせた。
「で、どうなんだ」
「まだ断定はできませんが、花びらの投与で、感覚の鈍化らしき反応が出ている程度です」
「“らしき”か」
「はい。再現性も十分ではありません」
王はかすかに口元を緩める。
「つまり、よく分からんが妙な反応はある、と」
「おっしゃる通りです」
「蒼玄草か。俺だって実際目にしたことないぞ」
王は紙を指で軽く叩いた。
「お前の息子と、ランベルトの息子だな」
「はい」
「それと、カッセルの娘、か」
王の言葉が執務室に響いた。
「サヴァラン」
「はい」
「面倒な芽なら、早めに教えろよ」
サヴァラン侯爵は静かに頭を下げた。
王はすでに次の書類へ目を落としていた。
♢
よく晴れた冬の穏やかな昼、学園の中庭でひとり、サンドウィッチを頬張っていたマリーの耳元に、もう聞き慣れた声がした。
「今日はパイないの?」
「……っ!」
落としそうになったサンドウィッチを慌てて掴む。
「お、驚かせないでください!」
振り返ると、ヴィクターが植え込みの間から顔を出している。
「ひとり?」
視線が周囲を見回し、それからマリーに戻る。
「ええ」
そう答えて、もう一口かじる。朝から慌ただしくて、ようやく落ち着いた食事は、夕食で残っていたポテトサラダを、寮の食堂でパンに挟んでもらったものだった。
美味しい。けれど、落ち着かない。
さっきからずっと、ヴィクターの視線がマリーの手元から離れないからだ。
「昨日は、大変だったね」
「そうですわね」
「……行けなくて悪かったね」
「わたくしに謝る必要はありませんわ」
ふたつ目のサンドウィッチに手を伸ばす。
その動きを追うように、着いてくる視線。
(……やっぱり見てますわよね)
どうにも食べづらい。
「マリーちゃんは、平気? 君の椅子やクッションもあっただろう」
「わたくしは平気ですわ。それよりシーナが……」
「彼女、落ち込んでる?」
落ち込んでいるというより、抜け殻みたいで、どう声をかけていいのかわからない。
「……無理して笑ってるみたいで、心配ですわ」
「そっか……」
ぐうう。
唐突に腹の虫が鳴った。
「失礼。最近、まともに食えてなくてさ」
あまりにあっさり言うものだから、思わず吹き出しそうになる。
さっきからの視線の理由が、ようやく腑に落ちた。
「……ふふっ。だからそんなに見てらしたんですのね」
「仕方ないだろ。君の持ってるもの、なんだってうまそうなんだから」
「サヴァラン様が食いしん坊なだけではなくて?」
「……食いしん坊なんて初めて言われた」
サンドウィッチを差し出す。
ロシーナの分もと思って多めに作ってもらったことを思い出す。今の様子なら、余らせる心配はなさそうだ。
「どうぞ」
「いいの?」
「ええ」
「マリーちゃん……」
「女子寮のシェフの料理はおいしいんですの。まあ、うちの弟のポテトサラダが一番ですけれど」
「……いつか、食べてみたいなあ」
軽い口調なのにその声色が妙に耳に残った。
冗談とも本気ともつかない、どこにも置かれないままの言葉。
ヴィクターは何事もなかったようにサンドウィッチを食べている。
飄々としたまま、ただ普通に。
その横顔は思っていたより穏やかで、目が合うとふわりと和らいだ。
(あ、この顔、初めて見た)
遠くから見ていた頃には気づかなかった。
あの作り物みたいな笑顔の奥に何があるのかなど、分からないままだったはずなのに。
今は、その奥に触れかけているような気がした。




