第二十五話 何もなかったかのように
「シーナ、本当に平気なの?」
寮の部屋を出る直前、マリーは振り返ってそう言った。
同じ部屋で過ごしているからこそ、ここ最近のロシーナの様子を心配しているのだろう。
「平気よ。朝の講義の前に、事務室で聞き取り調査よね? 実験道具、使えそうなのまだあればいいのだけれど……マリーの椅子も」
「そうじゃなくて……」
マリーは言いかけて、少しだけ言葉を選ぶ。
「シーナ、昨日あんまり寝てないでしょ」
ロシーナは視線を外した。
「平気よ」
「ほんとに?」
マリーが何とも言えない顔でロシーナを見つめている。
朝の学園は、まだ人影もまばらで、静けさが先に立っていた。
破損した持ち物について、学園側は淡々と確認作業を進めている。
被害の記録がまとめられ、持ち主へ順に報告が回る。
必要な手続きだけが、静かに積み重ねられていく。
ロシーナは説明を聞き流していた。
蒼玄草がなくなった。
その事実だけは理解しているのに、実感がうまく追いつかない。
ここ数週間、頭の中を占めていたはずなのに、今はもう、ひどく遠いもののように感じる。
最初から存在していなかったように。
あっけないほど、何も残っていない。
返却された箱の中に、一冊の古い図鑑が入っていた。幸い破損はない。
「図書室に返さなくちゃ……」
ぱらぱらと頁をめくる。
何度も開いた場所で、指が止まった。
蒼玄草の花が、静かに咲いている。
(花が咲くところ、見たかったな)
胸の奥が、わずかに沈む。
結局、一度も見ることができなかった。
満月の下で咲くはずだった花は、もうどこにもない。
「シーナ? 講義、もうすぐだから、保管棚に置かせてもらいましょう?……あ、図鑑……」
「うん……これだけ、あとで図書室に返してくるわ」
ロシーナは表紙の埃をそっと払った。
廊下はいつも通り、生徒たちの足音で満ちている。
昨日の出来事だけが、そこから抜け落ちているみたいだった。
誰も、何も変わっていない。
変わってしまったのは、自分だけなのだろうか。
うまく言葉にできないまま、ロシーナは歩き出した。
朝の教室はまだひんやりと肌寒く、窓から差し込む光だけが机の上を淡く照らしている。
ざわめきの中、ロシーナが席に着くと、最後の生徒が滑り込むように教室へ入ってきた。
それと同時に、教師が答案用紙の束を抱えて教壇に立つ。
「今回の定期試験の返却を行う」
淡々とした声だった。
事件が起きても、試験は返される。
講義も進む。
学園は何事もなかったように動き続けていた。
そもそも温室で何があったか、特に公表されることでもなく、ましてや誰も知らない蒼玄草のことなどなおさら。
名前が呼ばれ、答案が順番に配られていく。
隣や後方から、小さく息を呑む音が聞こえた。
点数に安堵する声。
落胆を押し隠す沈黙。
いつもの試験返却の空気だ。
「シュミット」
「はい」
マリーの声は、少しだけ硬かった。
答案を受け取った瞬間、彼女がわずかに目を見開く。
そのあとすぐに平静を装ったが、口元だけは隠しきれていない。
わずかに上った口角に、マリーの努力が報われたのだと悟った。
「マリー、すごいじゃない!」
「ほんとだ、前よりずっといいわね!」
周囲の声に、マリーが困ったように笑っている。
よかった。
そう思うのに、胸の奥が妙に遠かった。
「カッセル」
「はい」
ロシーナは立ち上がり、答案を受け取る。
見慣れた数字。
見慣れた順位。
変わらない。
たぶん、一位はまたユリウスなのだろう。
席へ戻る途中、誰かの小さな声が耳に入った。
「また安定してるな」
感心でも羨望でもない。
ただ、いつものこととして流される声。
ロシーナはそのまま席に座り、答案を机の上へ揃えた。
前の席では、マリーがまだ答案を見つめている気配がする。
嬉しいのを隠しきれないまま、それでも周囲に合わせようとしている。
その様子に少しだけ安堵する。
けれど、自分の中は妙に静かだった。
蒼玄草のことを考える。
なくなった、というより。
最初から夢だったみたいに、輪郭だけが薄れていく。
教室では次の名前が呼ばれ続けている。
誰かが喜び、誰かが肩を落とす。
その繰り返しの中に、自分だけがうまく戻れていない気がした。
気づけば、窓から差し込む光の角度が変わっていた。
「シーナ、一緒にお昼行こ」
マリーがサンドイッチの入ったカゴを抱えて立っている。
「マリー、ごめんなさい。私、図鑑を返してきたいの」
講義中も、机の中の図鑑がずっと気になっていた。
まるで、早く返しに来いと急かされているみたいに。
「一緒に行きましょうか?」
ロシーナは小さく首を振る。
これ以上、マリーを付き合わせるわけにはいかない。
「そっか……じゃあ、またね」
少しだけ気遣うような顔を残して、マリーが教室を出ていく。
ロシーナは図鑑を抱え直した。
古い紙の匂いが、静かに鼻先をかすめた。




