第二十三話 静かな違和感
寮の部屋に戻ると、いつもと変わらない静けさが広がっていた。
扉が閉まる音が、やけに軽く響く。
「お茶、淹れるわね。カモミールティーでいい?」
マリーの声に、ロシーナはかすかに頷いた。
「……ありがとう」
椅子に腰を下ろす。
視線が、何もない空間をなぞる。
今日は、何をしていたのだったか。
講義が終わって、放課後、マリーと一緒に夜間外出届を提出して、それから──。
「シーナ?」
呼ばれて、はっと顔を上げた。
「……ごめんなさい。大丈夫」
なんとか笑顔を作る。
目の前にそっとカップが置かれる。甘く爽やかな香りとともに立ちのぼる湯気を、ぼんやりと見つめていると、天井に届く前に次々と消えていく。
温かいはずなのに、手の中の感覚がひどく曖昧だった。
ふと、視線が窓へと向く。
白い光が、静かに差し込んでいる。
満月。
胸の奥が、わずかに軋む。
そうだ、あの場所で確かめているはずだった。
……今ごろ。
どこか別の場所で、あの子は咲いているのだろうか。
カップの持ち手に添えていた指先がぴたりと止まる。
どうして、そんなふうに思ったのだろう。
荒らされていたのだ。
踏み荒らされ、壊されていた。
ならば、蒼玄草だけが無事であるはずがない。
そう、分かっているのに。
どうして、咲いていると思ったのだろう。
……まだ、生きているとでもいうように。
胸の奥に、小さな引っかかりが残る。
脳裏に、掘り返された土の光景がよみがえる。
荒らされていた温室。散乱した器具。踏み荒らされた床。マリーのクッションは、無惨に引き裂かれていた。
だが、あの場所だけは。
掘り起こされた土は不気味なほど静かで、無理やり口を閉ざされたように、何も語らない。
無理やり引き抜いた跡が、ない。
ロシーナは、はっと息を呑む。
違う。あれは、まるで最初から──。
その確信は、言葉にならないまま胸の奥へ沈んだ。
「シーナ?」
マリーの声に、思考が引き戻される。
「……ごめ……っ!」
マリーが人差し指をロシーナの唇にあて、言葉を遮る。
「シーナ? あなた、次に謝ったら怒るわよ?」
「え……」
目を丸くするロシーナを一瞥すると、マリーはくすりと笑った。
「ごめんって、私があなたから聞きたくない言葉、第一位ね……何か、気になっていることがあるんでしょう?」
ロシーナが小さく頷く。
「それは、土の……声?」
マリーはその大きな瞳を細め、ロシーナを優しく見つめた。
「マリー、私……本当にあなたが、大好き」
「あら。奇遇ね。私もよ?」
カップに手を伸ばすと、すっかり冷めていた。
はしたないことは重々承知で、大好きな友人の入れてくれたカモミールティーを、両手で抱えて一気に飲み干す。
胸に残るこの違和感を、目の前で微笑むこの友人に、言葉にして伝えたい、そう思った。
「マリー、私……」
手元のカップに視線を落とす。
「土の、掘り方が気になって……」
マリーが首を傾げた。
「掘り方?」
「温室は、かなり乱暴に、踏み荒らされていたのに……あそこだけ、なにか違っていて」
言葉を探すように、ロシーナは視線を彷徨わせる。
「うまく言えないけど……妙に丁寧で……目的が、違う……?」
しばらくの沈黙のあと、マリーが静かに口を開いた。
「……別の人間かもしれない、ってこと?」
ロシーナは、すぐには答えられなかった。
いつの間にか月は空高く昇り、窓から差し込む白い光が、部屋の輪郭を淡く浮かび上がらせている。
マリーの問いが、頭の奥で何度も反芻される。
ふたりは口を開くこともできず、壁にかけられた時計の秒針の音だけが響いていた。
やがて零時が近づくにつれ、静けさはいっそう深まっていく。
♢
そのころ、ユリウスは温室の前に立っていた。月明かりがガラスに降り、温室を白く照らしている。
温室の中には、報告を受けて駆けつけた教員や警備の姿があった。壊された器具や踏み荒らされた床を前に、低い声で状況を確認している。
背後に気配を感じ、振り返る。
「ずいぶん遅かったな」
「あー、ちょっとね」
ヴィクターは肩をすくめながら歩み寄る。
「犯人、分かりそう?」
軽い調子の問いに、ユリウスは温室へ視線を戻した。
「ここの出入りは自由だ。特定には時間がかかるだろう」
「へえ。まあ、そうだよね」
興味の薄そうな相槌。
「お前、その顔どうした」
言われて、ヴィクターはわずかに視線を逸らした。
「え……なんでわかるの。上手いこと隠せてると思ってたのに」
「いや。わかるだろ」
ヴィクターの左頬は、見て分かるほどに腫れていた。
「侍女の子に、絶対バレない化粧品だって教えてもらったのにさ。あ、その侍女の子がさ——」
ヴィクターの軽い声だけが、静まり返った温室の前に不自然に響いていた。




