第二十二話 温室の異変
満月の夜。
夜間外出届を提出し、ロシーナはマリーとともに寮を出た。
温室の使用許可は、ユリウスたちがすでに取っている。
「……シーナ、嬉しそうね」
マリーが顔を覗き込んで言った。
「顔、少し赤いわよ?」
「……え」
ロシーナは思わず自分の頬に触れた。
「……浮かれて見えるかしら」
「あら。いいじゃない。実際そうなんだし。私でさえ楽しみに思っているのに」
「でも……」
マリーがくすりと笑う。
「蒼玄草以外にも、楽しみなことがあるってことかしら?」
「……マリー、意地悪だわ」
ロシーナは顔に集まった熱を誤魔化すようにマリーを軽く睨んだ。
マリーはくすくすと笑いながら、何も言わずに肩をすくめる。
並んで歩くうちに、温室の白い影が夜の闇に浮かび上がってきた。
見慣れたはずの扉が、今夜はどこか違って見える。
ロシーナは足を止めた。
「……どうしたの?」
マリーが不思議そうに首を傾げる。
「いえ……」
扉に手をかけ、押し開ける。いつもと同じはずなのに、妙に重たく感じる。
軋む音が、静かな夜にやけに大きく響いた。
月明かりを頼りに、ロシーナは一歩、中へ足を踏み入れた。
乾いた空気が、ひやりと肌に触れた。
入口脇の魔導灯に手を伸ばす。
淡い光が温室内を照らし出した、その瞬間。
足先に、何かが触れた。
「……え」
落とした視線の先に、紙が散らばっていた。
見覚えのある筆跡。ロシーナがまとめた記録だ。
端が踏みつけられ、くしゃりと歪んでいる。
「……なに、これ」
照らし出された温室に、マリーが息を呑む。
机代わりに使っていた木材が、倒れていた。
上に置いてあったはずの器具は床に落ち、いくつかは割れている。ガラスの破片が鈍く光り、踏めば嫌な音を立てそうだった。
本も、ノートも、無造作に投げ出されたまま散乱している。
「……誰か、入ったの?」
マリーの声が、わずかに強張る。
通い慣れた温室が、急にうすら寒く感じた。
「……あ」
マリーの視線の先で、彼女がいつも使っていた椅子が、横倒しになっていた。
その上に置かれていたはずのクッションは、床に落ち、埃を被っている。
無理やり裂いたのだろうか、中の綿が飛び出していた。
「……ひどい」
マリーの声が震えている。
「一体誰がこんなことを──」
ロシーナが弾かれたように顔を上げる。
「蒼玄草!」
気づいたときには、もう駆け出していた。
「シーナ! 走ったら危ないわ!」
慌てて後を追ったマリーが、立ち止まったロシーナの背にぶつかる。
「いった……シーナ? どうし……」
マリーがロシーナの視線の先へ目を向ける。
「そんな……」
そこにあるはずの蒼玄草が──
ない。
目の前には、ただぽっかりと穴が空いているだけだった。
「どう、して……」
ロシーナが呆然と、その穴を見つめる。
そこへ、ユリウスの声が鋭く響いた。
「カッセル嬢! シュミット嬢!」
足音が近づいてくる。
「ランドルフ様! ここです!」
「何があった!?」
駆け寄ってきたユリウスが、ロシーナの隣で足を止める。
「私たちは大丈夫です……ですが、来たときにはもう……」
マリーが静かに告げる。
「これは……」
低く、押し殺した声だった。
ユリウスの視線が、荒らされた土と、その周囲をなぞるように動く。
「……温室も酷い有様だ」
短く吐き捨てるように言った。
ロシーナは、まだ動けなかった。
胸の奥で、何かがひどく冷えていく。
「二人とも、今日は寮に戻るんだ。あとのことは私が引き受ける。学園にも報告が必要だろう」
「ランドルフ様、今日はサヴァラン様は……」
マリーの問いにユリウスが「ああ」と答える。
「今夜は一度屋敷に戻って、ここで落ち合う予定にしていたんだ。そろそろ来るはずだが……」
わずかに言葉を切る。
「いや。あいつにも伝えておこう。さあ。君たちは帰った方がいい。送らせよう」
従者たちに指示を出し、ユリウスが温室へと戻っていった。
ロシーナは、ただそれを見つめることしかできなかった。
ここひと月ほど、毎日のように見ていた蒼玄草は、今や影も形もない。目の前の穴が、その事実を否応なく突きつけてくる。
「シーナ。寮に戻りましょう」
気遣うようにマリーが声をかける。
不意に温室の光景がよぎり、ロシーナははっとする。
「マリー、ごめんなさい」
「……どうしてシーナが謝るの?」
「私に付き合って、ここにいてくれてただけなのに……あのクッション……お気に入りだったのに……」
マリーの腕がロシーナの頭を抱えるように、ぎゅっと抱きしめた。
「バカね、シーナ。あなたは何も悪くないわ……それに──」
マリーはロシーナの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「傷ついてるのはあなたも一緒でしょ?」
「マリー……」
「さあ。ランドルフ様のおっしゃってた通りよ? 今は、帰りましょう」
「……そうね」
ロシーナは頷きながら、掘り返された跡からなかなか目を離せないでいた。




