第二十一話 満月まで、あと二日
「じゃーん!」
翌日の放課後、ロシーナが温室に足を踏み入れた瞬間、ヴィクターの弾んだ声が響く。
「……え」
両手を広げて立つヴィクターの背後には、透明な円筒状の容器がいくつも並んでいた。
金属の縁取りには細かな紋様が刻まれており、その内部には、水が静かに満たされている。ひとつやふたつではない。視界に入るだけでも、かなりの量だ。
「これは……」
思わず一歩近づく。
水面は静かで、ほとんど揺れていない。
そっと縁に手を添え、覗き込む。
濁りがない。泡も見当たらない。
昨日汲んだものとは、明らかに違う。
「空気に……一切触れていないんですか?」
顔を上げる。
ユリウスがこちらを見ていた。
「圧をかけて流し込んでいる。混ざらないように」
「……すごい……そんなことが可能なんて……」
思わず、声がこぼれる。
「まあ、魔導具なんて貴族の中でも一部の家の者しか扱えないし、ロシーナちゃんからしたら、その反応になるよね」
ロシーナは返事もせず、じっと見つめている。容器は太陽の光を浴びてきらきらと輝き、足元に小さな虹が揺れた。
「ランドルフ様、これ……本当にすごいことです!」
興奮を抑え切れず、ユリウスを勢いよく見上げた。
「こんなにたくさん、しかもこの状態で……」
「でしょでしょ!」
ヴィクターが口を挟む。
「昨日あのあとさ、ユリウスったら戻って──」
言いかけた瞬間。
「余計なことは言うな」
ぐい、と肩を掴まれ、ヴィクターが情けない声を上げる。
「痛い痛い痛い! わかった、言わないって!」
手が離れると、ヴィクターは肩をさすりながらユリウスを睨んだ。
「張り切っちゃってさあ、ほんと」
「だまれ」
ユリウスは相手にしないように視線を逸らし、それからロシーナを振り返る。
「……足りそうか」
目を丸くしたロシーナが、何度もうなずいた。
「はい。十分だと思います」
これだけあれば、思う存分試せる。
量を気にして遠慮する必要もない。条件も、ほぼ揃っている。
蒼玄草に、この水を与えたら──
胸が高鳴る。
「……ありがとうございます!」
ユリウスは答えず、わずかに目を逸らした。
「じゃあ早速試してみようよ」
三人はそのまま温室の裏手へ向かった。
蒼玄草の様子は、ロシーナの予想を遥かに超えるものだった。
「……これは」
水は土へ染み込むより早く、蒼玄草へ吸い上げられていく。
茎が脈打つように膨らみ、波打った。
「吸っているというより……飲んでいる……?」
植物の動きとは思えない。
まるで、自分の意思で水を求めているみたいだった。
隣で、ユリウスがわずかに眉を寄せる。
「……まるで、生き物のようだな」
ヴィクターだけが何も言わず、蒼玄草を見下ろしていた。
目を細め、その様子をじっと追っていた。
灰白色の茎の根元から、わずかに色が差した。
葉の奥に隠れるようについていた小さな蕾が、わずかに膨らむ。
それは、みるみると濃さを増しながら上へと駆け上がり、やがて葉の先まで染める。昨日より遥かに銀色に近づいていた。
それでも、吸い上げる動きは止まらない。
一本、また一本と魔導容器から水を注ぐたびに、
蒼玄草はその速さを緩めることなく、飲み込んでいく。
先ほどまであった色の変化は、もうない。
「……まだ、足りないの?」
ロシーナが首を傾げる。
「銀色っていうより灰色って感じだね、これじゃあ」
「鉄は、もう満ちているのかもしれない」
ユリウスの言葉にロシーナも頷く。
「じゃあ明後日の満月まで、待つしかないかあ」
ヴィクターが両手を上げ、大きく伸びをしたとき。
「シーナ、いるー?」
温室の外からマリーの声が、香ばしい匂いとともに、ふわりと流れ込んできた。
「お、マリー嬢!」
ヴィクターが笑みを向けると、マリーが露骨に鼻を顰めた。
「ごきげんよう。やはりお二人もご一緒でしたわね……」
普段よりも大きな籠を片手に下げたマリーが、ふと周囲を見回し、ぴたりと動きを止めた。
「……なに、この魔導具の量」
並んだ円筒の容器を指さす。
「ぷっ」と俯き、肩を震わせるヴィクターを、ユリウスが睨む。
マリーは呆れたようにユリウスを見た。
「ランドルフ様、これは少々やりすぎでは……?」
「…………」
「いやあ! やっぱりマリー嬢いいなあ! な、ユリウス?」
「お前は本当にもうだまれ」
ぴしゃりと遮られても、ヴィクターはどこ吹く風で肩をすくめている。
そのやり取りを見ていたロシーナが、はっとしたように口を開いた。
「で、でも……多すぎるなんてことはなかったわ。むしろ、とても質が良くて……蒼玄草も、すごくよく吸って──」
「シーナ、ストップ」
「え?」
「今そういう話じゃない」
「……そうなの?」
「そうなの」
間髪入れずに返されて、ロシーナがぱちぱちと瞬きをする。
ヴィクターが再び吹き出した。
「いいねえ。ロシーナちゃんも……」
いつまでも笑い止まないヴィクターの口に、マリーが無言で、手に持っていたパイを差し出し、そのまま、ぐいと押し込んだ。
「むぐっ」
「……少しお静かに」
にこやかに微笑む。
温室をトマトとチーズの匂いが包んだ。
──満月まで、あと二日。




