第二十話 嫌では、ない
着替えを終えて部屋に戻ると、窓際にいたマリーがこちらに気づき、ほっとしたように息を吐いたかと思えば、すぐに訝しむように目を細めた。
「……シーナ、朝からどこに行ってたの?」
探るような声音に、ロシーナはわずかに言葉を詰まらせる。
まだ胸の奥が落ち着かなくて、うまく目を合わせられない。
「……ちょっと外に」
「ちょっと、であの格好になる?」
指摘されて、自分がどんな格好で戻ってきたのかを思い出す。落としたはずの泥の感触まで、まだ残っている気がした。
「……そ、蒼玄草の様子を見に」
「ああ、裏の」
マリーはすぐに納得したように頷き、それからふっと口元を緩めた。
「で? 何かあった顔してるけど」
ロシーナはもう観念するしかない。
こういうときのマリーには、勝てた記憶がないのだ。
小さく息を吐いてから、鞄を手に取った。
「……見てほしいものがあるの。来て」
それだけ言って歩き出すと、マリーもすぐに後ろについた。
温室の裏手に回ると、外気は少しひんやりとしていて、夕方の光が斜めに差し込んでいた。
その隅にひっそりと植えた蒼玄草は、昼間と変わらず静かに葉を広げている。
ロシーナはその前にしゃがみ込み、革袋を取り出した。
口を開こうとして、ほんの一瞬だけ手が止まる。
──少しは、頼ってくれていい。
不意に蘇る声と、蒼い瞳。
振り払うように息を整えてから、ロシーナは袋を傾けた。
ごくわずかな水が、根元の土に染み込んでいく。
その瞬間、葉がかすかに震えた。
色が、ほんの少しだけ深くなる。
「……あ」
思わず漏れた声に、マリーが隣でしゃがみ込む。
「今、色が変わった?」
「……ええ」
目を離さないまま頷く。
確かに反応している。
けれど同時に、これでは足りないこともはっきりと分かってしまった。
「……また、行かないと」
「“また”?」
マリーの声が、鋭くなる。
きっとロシーナの話を聞くまで続くはずだ。
このまま黙っていても、逃がしてはもらえないだろう。
「……水を汲みに、一人で行くつもりだったんだけど」
「だった?」
言葉尻を拾われて、ロシーナは両膝に顔を埋める。
「……途中で、会って」
「誰に」
ロシーナが膝の間から、ちらりとマリーに視線を送る。
「……ランベルト様に」
空気が止まる。
「は?」
間の抜けた声が落ちて、マリーは数秒そのまま固まった。
「……え、ちょっと待って」
こめかみに手を当てる。
「それで、一緒に行ったの?」
「……ええ」
頷くと、マリーはしばらく黙り込んだあと、ふっと息を吐いた。
「……他にも、誰かいた?」
ロシーナが小さく首を振る。
「ふ、ふたりで……」
マリーの大きな瞳が溢れそうなほど見開かれる。
「それで?」
ロシーナは言葉を探す。
どう説明すればいいのか、自分でも分からない。
「……頼ってほしいって、言われたの」
膝に額をつけたままそう言うと、マリーの眉がわずかに上がる。
「ふうん」
それから、少しだけ身を乗り出す。
「で、シーナはどうしたいの?」
その一言で、思考が止まる。
「頼ってほしいって言われて、」
マリーは続ける。
「シーナが、どうしたいか」
逃げ場のない問いだった。
「……分からないわ。……でも」
気持ちをたどるように、言葉を探す。
「嫌では、ないの」
言葉にしてから、自分で少し驚く。
マリーはそれを聞いて、ふっと力を抜いて微笑んだ。
「じゃあ、今はそれでいいんじゃない? 無理に決めなくていいわよ」
肩をすくめる。
「相手が誰でも、そこは同じでしょ」
その言葉は、驚くほど素直に胸へ落ちてきた。
「……そうね」
ロシーナがふと上を見上げた。暮れなずむ空が青とピンクに染まり、うっすらとした月が姿を現した。
満月まで、あと三日だった。
♢
同じ頃。
ユリウスもまた、同じ空を見上げていた。
満ちかけた月が輝きを増し、夜の訪れを告げる。
テラスのテーブルの上には、公爵家が管理する魔導具が並んでいた。
「……やっぱりここか」
気配もなく現れたヴィクターが、肩をすくめる。
「僕のこと置いてけぼりにしてさ」
軽く覗き込む視線の先には、並べられた魔導具。
「ずいぶん協力的じゃない?」
ユリウスはヴィクターを見もしない。
「……別に」
「はいはい」
気のない相槌を打ってから、ヴィクターは小さく笑う。
「で?」
わずかに身を乗り出す。
「どこまで付き合うつもり?」
「どこまでとは」
「だってさあ、あの花咲かせたいのってロシーナ嬢だろ? 君が付き合う必要なんて何もないじゃないか」
「お前が物騒なこと言ったんだろ」
「ああ。まあ、そうなんだけど……正直、一輪咲いたところで大きな影響なさそうでさ」
「……危険な可能性があるなら、放っておくわけにもいくまい」
「あの子、止めても無駄だろうしね」
「……ああ」
ユリウスが軽く手を挙げると、控えていた従者が一歩前に出た。
「これを運んでくれ。研究用として頼む。名目は希少種調査でいい」
いくつかの魔導具を手早く選び、指し示す。そして、そのままヴィクターを一瞥し、「準備がある」とだけ言って、踵を返した。
「ちょ、ちょ、ちょ。まさか今からまた行くの?」
「お前は早く帰れ」
遠ざかるユリウスの背中に、ヴィクターは小さく呟いた。
「放っておけないにしても、君が自分で行く必要はないはずなんだけどね」




