第十九話 頼るということ
「……水たまりではありません」
思わず顔を上げると、ユリウスが眉を上げた。
(やっぱり、そう思っていたのね)
想像していたよりずっと控えめだ。
けれど、確かに水は流れている。
ほんのわずかにでも。
ロシーナは膝をつき、落ち葉をさらに払った。
湿った土が覗き、水の筋がわずかに広がる。
そっと水面に触れ、掬い上げる。
指先が痺れるように冷たい。
そのまま革袋を取り出し、水面を乱さぬよう慎重に差し入れた。
底に触れるか触れないかの位置で止める。
角度を変えると、水が静かに流れ込んでいった。
波紋は、ほとんど立たない。
満ちきる寸前で袋をわずかに押し上げ、内側の空気を逃がす。
ゆっくりと。
慎重に。
そのまま、口を閉じた。
「……随分と気を遣うんだな」
「空気に触れると、性質が変わるかもしれないので」
「なるほど」
短い返事のあと、わずかな沈黙が落ちる。
「──魔導具を使えば、密閉したまま汲める」
ロシーナは顔を上げた。
「え……」
「圧をかけて流し込めばいい。空気も入らない」
さらりと言われて、言葉に詰まる。
確かに、それができれば理想的だ。
けれど。
「……いえ、そんな……」
思わず首を振る。
「今日は少しだけ汲むことにします。蒼玄草に試してから、また来ないと」
この量では足りない。
だが、確かめるには十分だ。
結果次第で、もう一度。
満月までに。
「……効率が悪い」
低い声に、胸がわずかに強張った。
「それでも、この方法しか……」
「……そうか?」
ユリウスの瞳が真っ直ぐロシーナを捉える。
逃げるみたいに視線を落とすと、彼はふうっと息を吐き、再び湧き水へ目を向けた。
「……頼ってほしい相手には、なぜかなかなか頼られない」
ぽつりと落ちた言葉が、耳に残る。
頼る。
その言葉が、胸の奥に引っかかったまま離れない。
そんなこと、できるはずがないのに。
相手はランベルト公爵令息だ。
本来なら、こんな風に話せる方ではない。
なのに。
どうしてこの方は、当たり前みたいに隣にいるのだろう。
どうして、そんなこと言うの?
何かを言おうとして、言葉が出てこない。
沈黙が落ちる。
やがてユリウスが、口を開いた。
「今日だって、君は一人で来るつもりだったんだろう」
はっと顔を上げる。
「……だが、今は私と来ている」
言い返せない。
その通りだった。
「……今日は、少し強引だったがな」
ユリウスがふっと笑う。
「──少しは、頼ってくれていいんだ」
穏やかな声音だった。
けれど、その言葉は思っていたよりずっと近い。
逃げ場がない。
胸の奥が、強く脈打った。
頼っても、いいのか。
「それとも、私では不足か?」
「そ、そんなことは……!」
反射的に否定して、はっとする。
そんなはずない。
きっと、分かっていて言っている。
ユリウスが目を細め、わずかに口角を上げた。
「なら、決まりだな」
当然のように言って、水場へ視線を戻す。
「次は、準備を整えて来る」
「……?」
「魔導を使う。今よりは、まともな量が取れるはずだ」
まるで、大したことではないみたいに言う。
「──格好くらい、つけさせてくれ」
思わず言葉を失った。
横顔が、少しだけ楽しそうに見える。
ロシーナは手の中の革袋を見つめた。
この量では足りない。
満月までに、もう一度来る必要がある。
一人で来るつもりだった。
そのはずなのに。
次も隣にいる姿を、少しだけ想像してしまう。
「……今日は、これで試します」
ようやくそれだけを言って、革袋を鞄に結びつけた。
ユリウスは何も言わなかった。
ただ、当然みたいに隣に立っている。
その距離が、少し近い。
繭に包まれるみたいな感覚が、また胸を掠める。
心地いいはずなのに、落ち着かない。
ユリウスが立つ側の半身だけ、熱を持ったみたいに痺れていた。
ロシーナはそっと息を整える。
帰り道、言葉はほとんどなかった。
けれど隣を歩く気配だけが、さっきよりも近く感じられた。
寮へ戻る頃には、日が傾き始めていた。
「──シーナ?」
扉を開けた瞬間、マリーが目を丸くする。
「え、ちょっと、どうしたのそれ……」
視線を追って、自分の足元を見る。
膝についた泥は、乾きかけて固まっていた。
「あ……」
返事が少し遅れる。
「外に、少し……」
うまく言葉にならない。
頭に浮かぶのは、揺れる水面よりも。
──少しは、頼ってくれていい。
あの声ばかりだった。
「シーナ?」
呼ばれて、はっと我に返る。
「ご、ごめんなさい。すぐ着替えるわ!」
笑おうとして、うまくいかなかった。
まだ片側だけ、わずかな熱が残っている気がして。




