第十八話 先回り
翌朝、早くに目を覚ましたロシーナは、マリーを起こさないようそっと身支度を整える。
鏡に映るのは、乗馬服に似せて仕立てた作業着にエプロンを重ねた自分の姿。長い髪を手早く編み上げ、いつものクロッシェに収めた。
「よし」
小さく呟く。
「ん……」
寝返りを打ったマリーに、思わず口元を押さえる。
(お願い、起きないで……!)
願いながらも、焦って手の動きが早くなる
重たい革鞄を肩にかけ、音を立てないよう扉を開けた。
定期試験の翌日は、講師の採点日のため学園は休みとなる。
ロシーナは、この日、水の流れを辿るつもりでいた。
ユリウスに指摘されたことはもっともだった。
それでも、いくら考えても、この方法以外に見つからない。
蒼い瞳が思い浮かぶ。
ロシーナを諭すように、優しく「一緒に考えよう」と言ってくれた。
いつも筋の通っている彼の言葉は、否定されることはあっても、納得できるものばかりだ。
そして、そう思えるのは、彼がロシーナの言葉に耳を傾けてくれているからだろう。
いつの間に、あの方とあんなふうに話せるようになったのだろう。
近付くのさえ畏れ多かったはずだ。
温室や図書室でのやり取りが、もう特別なことではなくなりつつある。
(慣れてはいけないのに)
まるで、繭に包まれているような感覚になる。
心地いいはずなのに、なんだか落ち着かない。
それでも、その心地よさに、確かに身を預け始めている自分がいた。
庭園に差しかかったロシーナは、正面から差し込む朝日に思わず目を細める。
その光の中、輪郭だけが浮かび上がる人影に、足が止まった。
「……ランドルフ様?」
ユリウスの視線がロシーナを捉えた。
逆光の中から、一歩、こちらへ踏み出す。
ぼやけていた輪郭が、やがてその表情をはっきりと映し出した。
「やはりか」
どこか困ったように、ユリウスがぽつりと呟いた。
「どう……して……?」
「あのとき、納得していなかっただろう?」
「……っ!」
見透かされていたことに、かっと顔に熱が走る。
ユリウスがロシーナの革鞄をひょいと奪った。
「ラ、ランドルフ様!あの、私どうしても──」
「わかってる」
言葉を遮るように、穏やかな目がロシーナを見つめる。
「地図を」
「……え」
「地図を見せてくれ。それに、ここでは目立つ。場所を変えよう」
ユリウスがロシーナを連れて入ったのは、高位貴族しか利用を許されていないテラスだった。
「君がここにいると、あの日を思い出す」
「……ご令息を、怒らせてしまったときの」
「気にするな。私は感謝していると伝えたはずだ」
「……はい」
テラスには朝の光が差し込み、鳥の囀りが普段よりも大きく聞こえる。
「君のことだから、目処が立っていると言っていた場所も、かなり絞られているんだろう?」
ロシーナはテラスのテーブルに地図と地形図を広げ、ある一点を指し示した。
「おそらくこの辺りかと」
ユリウスが覗き込む。
「テラスからなら、そう遠くないな」
しばらく考えたのち、ユリウスが顔を上げた。
「君、馬に乗れるかい?」
ロシーナはわずかに目を見開いた。
「……少しなら」
ユリウスは小さく頷くと、控えていた従者に視線を向けた。
言葉は交わさない。だが、その意図は十分に伝わったらしい。
従者は静かに一礼し、その場を離れる。
ほどなくして、二頭の馬が連れてこられた。
「さあ、行こうか」
ユリウスはロシーナの革鞄を軽く持ち上げると、そのまま馬に跨った。
ロシーナも従者の手を借りて騎乗する。
「庭園側からは立ち入れないが、テラスの裏手から回れば、そう遠くはないはずだ」
「……ありがとうございます」
ユリウスはロシーナを一瞥すると、踵で馬に合図を送った。
「行こう」
ロシーナが後を追った。
テラスの裏を抜けるとすぐに、朝の光は木々に遮られ、あたりはひんやりとした空気に包まれた。
踏みしめるたび、湿った土と落ち葉がやわらかく音を立てる。
ロシーナは視線を落とし、地形の起伏を追った。
水が流れた跡を見落とさないよう、意識を足元に集中させる。
「この先です」
速度を落とし、前を行くユリウスに声をかける。
木の根が複雑に張り出した斜面の先、地面の色が変わっていた。
乾いた土に混じって、暗く湿った筋が細く続いている。
ロシーナは馬を止め、鞍から降りた。
筋をたどりながら、指先で土を確かめていく。
歩き進めるごとに、その冷たさが増していった。
「……近そうです」
見えないほど細い流れが、確かにここを通っている。
ロシーナはさらに上へと辿った。
湿り気はわずかに強くなる。
やがて、落ち葉の色が周囲と違う一角に、視線が止まった。
ふいに、足元の土が崩れ、体が傾く。
「────っ!」
その瞬間、ユリウスが脇の木に手をかけ、体勢を支えながらロシーナの二の腕を掴む。
「無理はするな」
低く落ち着いた声。
「あ、ありがとうございます」
触れられた箇所から、じわりと熱が広がる。
ユリウスの香りが急に強くなった気がして、頭がくらくらする。
こんなの知らない。
自分の体が、うまくコントロールできない。
けれど、意識を振り切るように視線を足元へ戻す。
「このあたりで──」
膝をつき積もった落ち葉に手を伸ばすと、そっと払いのけた。
その下に、浅く水を湛えた窪みが現れる。
澄んだ水面が、かすかに揺れた。
「これが、湧き水……?」
「……はい」
「…………」
「………………」
「……………………」
「水たまりではありません!」
「あ、ああ」




