第十六話 月と鉄
昼休みの中庭にはやわらかな陽射しが降り注いでいた。晩秋の空気を忘れさせるような暖かさの中、足元で落ち葉がかさりと鳴った。
「でね、だから——」
「え? マリー嬢、放課後こないの?」
不意に差し込まれた声に、マリーがぴたりと動きを止めた。
「……聞こえなかったことにしたいわね」
周囲を見回しても、それらしい姿は見当たらない。
「こっちこっち」
中庭の外れ、植え込みの奥から、ひょいと手だけが覗く。
「……サヴァラン様? そんなところで、何をなさっているんですの?」
「しー」
低く笑いを含んだ声とともに、くいくいと手招きされる。
マリーは露骨に顔をしかめたが、ため息をひとつついて立ち上がった。
「ほら、シーナも」
「あ、うん」
二人で植え込みの裏へ回り込むと、そこは校舎の壁際に設けられた園芸用の区画だった。手入れ用の道具がまとめて置かれ、その脇には低い石の縁が巡らされている。
外からは見えにくい、その内側。
当然のような顔でくつろいでいるヴィクターの姿に、マリーはこめかみを押さえた。
「……で? ここで何を?」
「ん? 休憩」
悪びれもなく返ってくる。
「仮にも侯爵令息様が、こんなところで寛がないでください」
「静かでいいんだよ、ここ。穴場ってやつ」
軽く肩をすくめる様子に、マリーは深々とため息をついた。
「それで? 放課後、図書室こないのかい?」
「ええ。まあ」
マリーが決まり悪そうに視線を逸らす。
「定期試験の範囲が、終わってなくて……」
「なんだ。そんなことか」
他人事のような口調に、マリーはぴくりと眉を引きつらせた。
「わたくしにとっては、そんなこと、じゃありませんの!」
ばさりとノートを開いてみせる。
「選択科目も、やっと決めたばっかりなのに」
「マリー、決めたの?」
「会計術と財務論。王宮会計官の資格に直結するし、それで王宮に入って……財務課で働けたら御の字ね」
「財務課ねえ」
「ちょっと、さっきから聞いていればなんですの? わたくしには無理だとでも?」
「ああ、いや! 違うよ。試験なら僕に聞いてくれてもいいのに。それにほら──」
ヴィクターがロシーナへ視線を向ける。
「ここには、学科試験学年第二位の才女だっているじゃないか」
「……サヴァラン様のことは置いておくとして、シーナならとっくに試してますわよ!」
即座に返ってきた声は、ほとんど悲鳴に近かった。
「この子、ぜーんぶ土に絡めるの!」
「僕の扱いが日に日に酷くなっている気もするけど……まあいいや。なに? 土?」
「そうよ! 計算問題なのに、『土で換算するとこうなる』って別の式持ち出すのよ! 答えは合ってるのに、やり方がおかしいの!」
「うっ」
「歴史だってそう! 『その土地に住むならこうするはず』って、全部土で決めるの!」
「マリー……ごめんなさい。力になれなくて……」
「やだ、謝らないで! シーナに悪いところなんてひとつもないんだから」
そのやり取りを眺めながら、ヴィクターは目を細めた。
そして、誰にも届かないほど小さな声で、ぽつりと呟く。
「……『カッセルの知』、か」
「……え? 何か言いまして? サヴァラン様」
「いや、何も。それより──今日はパイないの?」
「ありませんわ」
「ちぇーーーー!」
その嘆きを、昼休みの終わりを告げる鐘がかき消していった。
♢
図書室。
多くの書棚を通り過ぎた最奥に『博物学・地誌』の札がぶら下がっている。
放課後。普段はロシーナしか利用していない一角に、今日は見目麗しい二人の男の姿があった。
「お待たせしました……!」
息を切らしながら現れたロシーナに、ユリウスが柔らかく微笑む。
「やあ。カッセル嬢。私たちも先ほど来たところだ」
「ここは実務科の棟から離れてるからね。気にしない、気にしない」
ヴィクターが数冊の書籍を抱えたまま軽く頷く。
「例の小説と、ティエラ・エイカルが挿絵を描いた書籍も探してたんだ」
「この学園にはこれだけのようだな」
「よし! じゃ、始めよっか」
「はい!」
ロシーナが温室から持ってきた植物図鑑のページを開く。
「これが図鑑に載っている蒼玄草の花で──」
「はい、これ」
差し出された一冊は、年季の入った装丁だった。深い藍色の表紙はところどころ擦れ、背表紙の金の箔押しも薄れている。
『月下に燃ゆ』──リュシアン・ヴァルハイト。
頁をめくると、繊細な線で描かれた挿絵が現れた。月光の下、互いに視線を交わす男女。その表情は、言葉よりも雄弁だった。
「ティエラ・エイカルの挿絵だ。初版に近いものだな」
ロシーナは挿絵に目を落としたまま、わずかに首を傾げる。
「……これ、本当に蒼玄草でしょうか」
「うん?」
ヴィクターが横から覗き込む。
「似てはいるけど、花の形が少し違うような——」
「……確か、この花が出てくる場面があったはずだ」
ユリウスが本を手に取り、頁をめくる。
「ここだ」
静かに一箇所を指し、そのまま文章を追う。
「——ロレンツォがジュリエッタを抱きしめると、それまで雲に隠れていた満月が顔を出した。すると、辺り一帯の花が一斉に開いたのだ」
「うーん。蒼玄草も同じ条件で開花するとしたら、温室裏の花もとっくに咲いてるんじゃない?」
「……そう、ですね」
ヴィクターの疑問はもっともだった。温室裏とはいえ月の光が届かない場所ではない。
ロシーナは思案気に示された一文を見つめていた。
「……いや」
声を落としたのはユリウスだった。
「この場面、確かもう少し前に——」
指先がある頁で止まり、ユリウスが淀みなく読み上げる。
「——かつて幾度も争いの舞台となったその地は、幾重にも血を吸ったかのように、赤黒い土をしていた。」
ロシーナが、思わず繰り返す。
「……赤黒い土……」
「鉄分、か」
ヴィクターがぽつりと呟いた。
温室裏の土が、ロシーナの頭をよぎる。
「鉄が、足りない……」
「ああ。月と鉄、その両方が満ちていない」
ユリウスの言葉に、ロシーナがゆっくりと顔を上げた。
「あの、試したいことがあって……!」
「なになに?」
ロシーナの指先に、力がこもる。
「蒼玄草の根に鉄分を与えてみたいんです」
ユリウスとヴィクターの視線が交わる。
「方法は?」
窓の外では、いつの間にか日が傾きかけていた。
「思い当たる場所があるんです」




