第十五話 月光
「月光だ」
ユリウスの言葉に、ロシーナは思わず息を呑んだ。
月光。──それが鍵。
胸の奥で何かが弾けそうになるのを、必死に押しとどめる。
「それなら、今すぐ確かめれば──」
ロシーナの口から思わず零れかけた言葉は、最後まで形にならなかった。
「許可できない」
低く、はっきりとした声だった。
顔を上げると、ユリウスが静かにロシーナを見下ろしている。先ほどまでの思案の色は消え、その有無を言わさぬ口調は、彼が統治者であることを否応なく思い起こさせた。
「令嬢が夜に残るなど論外だ。それに、届けも出ていない以上、この場に留まること自体が規則違反になる」
淡々とした口調で告げられた言葉に、マリーがこくこくと強く頷く。
「そうですわ。外出や居残りは、事前に届けを出さなければ認められませんもの」
「ですが……」
ロシーナは言いかけて、言葉を飲み込んだ。
正しい。どこまでも正しい。だからこそ、何も言い返せない。
それでも。
視線は、無意識に温室の外へと向かった。
薄暗くなったガラスの向こう、空には月が雲の谷間から見え隠れしている。
あと少しで、確かめられるかもしれないのに。
唇を引き結ぶロシーナの隣に、ユリウスが並び立ち、窓の外を見上げた。
「……じきに雨になるだろう」
ユリウスは一度視線を外し、静かに息を吐いた。
「まずは明日、その小説……『月下に燃ゆ』を当たってみないか」
ロシーナの肩が、わずかに揺れる。
「君だけここに残るのは、シュミット嬢も安心できないだろう?」
「……はい」
「放課後、図書室で一緒に確認しよう」
思いがけない言葉に、ロシーナは顔を上げた。
「私も目を通しておきたい」
簡潔な一言。けれど、それだけでロシーナの胸の奥が、じんわりと温かく満たされていった。
「……ありがとうございます」
小さく、しかしはっきりとロシーナは頷いた。
「じゃあ今日はお開きだね」
軽い調子でヴィクターが言い、ぱん、と手を打つ。
「門限もあるし、これ以上は怒られちゃう」
「当然ですわ」
マリーがきっぱりと言い切り、ロシーナの腕をそっと引いた。
温室を出ると、外気がしっとりと身体にまとわりつく。
いつの間にか、空は分厚い雲に覆われ、石畳を踏む足音が、やけに静かに響いた。
「それにしても、さっきのパイ」
ヴィクターがふと思い出したように口を開く。
「ああいう食べ方、初めてだ」
「食べ方、ですの?」
マリーが首を傾げる。
「手でつまめるくらい小さいやつ。あれ、便利だね」
軽く指先を見下ろし、くすりと笑う。
「しかもあの大きさに、サーモンとほうれん草が入ってるなんてさ」
「……ああ」
マリーは少しだけ照れたように目を伏せた。
「家でよく作るんですの。忙しい時でも食べやすいので」
「忙しい?」
「ええ。我が家は商会を営んでおりますので、何かと慌ただしくて」
「君が料理を?」
ヴィクターの言葉に、マリーが少し得意げに微笑んだ。
「わたくしだけではありませんわ。母はもちろん、父も、弟も。我が家では手が空いている者が協力するんですの」
ヴィクターは一瞬だけ眩しそうに目を細め、それからふっと笑った。
「なんか、いいな。君の家」
ぽつりと落ちたその言葉に、マリーが目を見開く。
そんな二人の後ろで、ロシーナはほとんど言葉を発さずに歩いていた。
会話は耳に入っているはずなのに、どこか遠くに感じられた。
ただ月光という言葉だけが、繰り返し浮かんでは消えていた。
ロシーナとマリーを寮まで送り届け、ユリウスと二人になったヴィクターはふと足を止めた。
「……ユリウス」
名を呼ばれ、ユリウスが振り返る。
「なんだ」
ヴィクターは軽く肩をすくめた。
「あのさ、さっきの花だけど」
ユリウスの目が、わずかに細められる。
「僕も見たことはないんだ。でも、“報告”は上がってる」
「……報告?」
「人の意識に影響を与える可能性がある、ってね」
それだけ言うと、ヴィクターはいつものように笑みを浮かべた。
「ま、噂レベルかもしれないけど」
ひらりと手を振る。
「一応、忠告ってことで」
ユリウスは何も言わなかった。
ただ静かに、遠ざかっていくヴィクターの背中を見送った。
湿った夜風がわずかに冷たく、冬の気配がした。




