第十三話 逃げ場が、ない
正午を知らせる鐘が鳴り、講義が終わる。
ヴィクターは軽く伸びをすると、そのまま廊下へ出た。
今朝のやり取りを思い出しながら、ユリウスを探すためにいつもの場所へと足を向ける。
だが──
「……あれ?」
カフェテリアには、見慣れた姿がなかった。
代わりに、取り巻きの令嬢たちが落ち着かない様子で周囲を見回している。
「ユリウス様……?」
「それが、どちらへ行かれたのか……」
口々にそう言うが、要領を得ない。
ヴィクターは小さく息をついた。
(珍しいな)
あれほど律儀に、同じ時間に同じ場所へ現れる男が。
「……伝えるまでもなかった、か」
♢
図書室の奥は、昼間だというのにひっそりと静まり返っていた。
ほとんど人の寄りつかない一角。
その窓際に、見覚えのある後ろ姿があった。
(……いた)
足を進めかけて、ふと窓に映り込んだ自分の姿が目に入る。
鐘の音とともに教室を後にし、人の流れを避けながら遠回りをして、ここまで来た。
──乱れている。
わずかに眉を寄せ、小さく息をつく。
指先で軽く髪を撫でつけ、何事もなかったかのように、制服の襟元を整えてから、改めて歩を進めた。
「──カッセル嬢」
ユリウスの静かな声が、図書室の天井にぶつかり、静寂を震わせた。
♢
ロシーナは、数冊の植物図鑑を交互に見比べ、小さな溜息をついていた。
ここ数日、温室にこもりきりだったせいで、図書室に来るのは久しぶりだ。
蒼玄草について、図書室にある図鑑はひと通りあたってみたが、その正確な開花条件についてはどの本も記述が曖昧だった。
「お手上げだわ。言い伝えしか残っていないなんて……」
独り言が、埃っぽい空気の中に溶けていく。
その静寂を破るように、不意に声が降ってきた。
思い出さないように、考えないようにしていたはずの声。
「──カッセル嬢」
恐る恐る振り返れば、そこには整いすぎた容貌に、どこか切実さを滲ませた表情で、ユリウスが立っていた。
「……やはり、ここか。君は本当に、探すと一向に見つからないな」
低く落ちた声に、ロシーナの肩がびくりと揺れた。
「も、申し訳ありません」
思わず頭を下げると、ユリウスは目元を和らげた。
「いや、いい。君が謝ることではない……それより──」
言いかけて、机の上に広げられた図鑑へと視線を落とした。
「昼食もとらずに……今回は土ではなく、植物か?」
「あ、あの。気になることがありまして……」
言いながら、ロシーナは手元の本をそっと閉じる。
逃げ場を探すように、指先が落ち着きなく紙の端をなぞった。
「君らしいな。しかし、食事はとった方がいい」
一瞬ためらったあと、ユリウスは一歩だけ距離を詰める。
「……もし、良ければ。私と一緒にどうだろう」
「えっ!あ、あの……私、その……そう、マリーが……!」
顔を上げた拍子に視線がぶつかり、慌てて逸らす。
「マリー」
短く繰り返されて、余計に焦りが募った。
「あ、いえ。ゆ、友人が……私のために、いつも手作りのパイを焼いてくれているので、その……」
「手作りのパイ」
その言葉に、ほんのわずかにユリウスの眉が動いた。
♢
放課後の温室は、昼間とは違う静けさに包まれていた。
「あ、あの……どうしても、お断りしきれなくて……」
申し訳なさそうに肩を縮めるロシーナの横には、温室の中を興味深そうに眺めるユリウスと、にこにことマリーに笑いかけるヴィクターの姿があった。
「だからって、どうしてこうなるのよ!」
マリーの淑女らしからぬ声が温室内でこだました。
ロシーナは肩をすくめたまま、居心地の悪そうに視線をさまよわせる。
「突然すまない。ユリウス・フォン・ランベルトだ。カッセル嬢の話をしたら……この有様だ」
「あ、いえ……マリー・シュミットと申します。ランベルト侯爵令息様におかれましては、ご機嫌麗しゅう……」
「畏まらないでくれ。ランベルトでいい」
「は、はい……」
マリーの声がだんだん小さくなるのを、ヴィクターはくすくすと喉を鳴らしながら見ていた。
「いやあ、面白いことになっているじゃないか。シュミット嬢の手作りパイ、楽しみだなあ」
「ちっとも面白くありませんわっ!」
ぴしゃりと言い返すマリーに、ヴィクターはまるで意に介した様子もなく微笑む。
一方でユリウスは、二人のやり取りには口を挟まず、静かに温室の中を見回していた。
整然と並べられた鉢植え、湿った土の匂い、ガラス越しの淡い光。
机代わりに使われている一枚板には、複数の試験管や計算機、雑然と散らばったノートの切れ端。
ユリウスは室内を一瞥したあと、机の上に置かれた包みに目を留めた。
「それが、例のパイか」
「え、あ……はい。マリーが……」
「へえ、それがそうか」
いつの間にか覗き込んでいたヴィクターが、楽しげに身を乗り出す。
「……ちょっと、勝手に触らないでくださる?」
マリーが一歩踏み出し、ぴたりと牽制する。
「君、今朝と態度が違いすぎないかい」
ヴィクターが揶揄うようにマリーを見やる。
「あら。そうですわね。取り繕っても無駄だということがわかったからかしら」
マリーも負けじとヴィクターと向かい合う。
その間に挟まれる形になったロシーナは、ますます小さくなった。
(この状況は、なに……?)
昼間の図書室でのやり取りが、遠い出来事のように思える。
静かだったはずの温室は、今や妙に落ち着かない空気に満ちていた。




