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土を読む男爵令嬢のせいで、公爵令息は完璧ではいられない──我が家が国家機密だなんて知りませんでした  作者: 中田かすり


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第十二話 友人の矜持、踏み込ませない一線

 


 中庭の隅、樹齢を重ねた大木の木陰にあるベンチは、マリー・シュミットにとって学園内の憩いの場であった。


 彼女は今、手に汗握る恋愛小説の佳境に没入している。あと数ページ。この章の終わりで、長年秘められてきた騎士と姫の運命が明かされるはずだった。



「あ、その本。ヒロインと結ばれるのが、騎士じゃなくて庭師でびっくりしたやつ」



 頭上から降ってきたのは、この世のものとは思えないほど涼やかで、柔らかな声だった。


 マリーの指が止まる。思考が真っ白に塗りつぶされ、心臓が一度、嫌な音を立てて跳ねた。


 今、この方は何と?


 ワナワナと指先を震わせ、マリーはゆっくりと顔を上げた。


 視線の先には、柔らかな白銀の髪を緩くまとめ、どこか人目を引く華やかさを纏った青年が立っていた。


 マリーがかつてロシーナに「あの温度のない瞳に見つめられるなんて羨ましい」と熱弁した、その人だった。



「初めまして。ヴィクター・サヴァランだ。……おや、そんなに驚かせてしまったかな?」



 ヴィクターは、自分の発言がどれほどの悲劇を生んだのかなど微塵も思っていない様子で、優雅に微笑んでいる。


 マリーは叫び出したい衝動を、必死に抑え込んだ。震える肩を気合で固定し、本を閉じると、流れるような動作で立ち上がった。



「……お初にお目に掛かります、サヴァラン様。マリー・シュミットと申します。……あの、今のは、一体どのような……」



「ちょうど先日読み終わったところだったんだ、その本。つい声を掛けたくなってしまってね。……ところで、ちょっと聞きたいんだけど。ロシーナちゃん、最近どうしてるかな?」



 ヴィクターは悪びれる様子もなく、むしろ親しげに距離を詰めてきた。



「ロシーナが、何か?」



「いや、最近見かけないから。どうしているかと思ってね」



 マリーは答えず、静かに校舎側の廊下へ視線を向けた。


 そこには、イザベラを筆頭とした取り巻きたちに囲まれ、こちらを……正確には、自分ではなくヴィクターの方を見つめているユリウスの姿があった。


 マリーの内心に、冷え冷えとした感情が広がる。



(わざわざ友人を使ってシーナのことを……? 本当にとんだヘタレだわ)



 マリーは再びヴィクターへ向き直った。


 その瞬間、かつて憧れた温度のない瞳が、真っ向からマリーを射抜いた。



(……シーナには、この方に見つめられるなんて羨ましいって言ったけれど。……なんだ、全然、これっぽっちも嬉しくないじゃない)



 至近距離で見るその瞳は、マリーのことを見ているはずなのに空虚で、どこか薄寒い朝靄のようだった。



「恐れ入りますが、サヴァラン様。わたくし、初対面の方に友人の消息をお話しするほど、軽率ではございませんの」



 極上の、しかし血の通わない微笑みを仮面のように貼り付け、マリーは静かに拒絶を告げた。


 ヴィクターの完璧な微笑みが、一瞬だけ止まる。



「もっとも、ロシーナのことをお知りになりたいのは、貴方さまご自身というよりは──」



 マリーが再び校舎に目を向けると、ユリウスたちの後ろ姿が小さくなっていくところだった。



「……それでは、失礼いたしますわ。わたくし、結末を奪われたこの本を悼まねばなりませんので」



 マリーは再び本を手に取ると、一瞥もくれずにベンチへと座り直した。


 その様子を目を丸くしながら見ていたヴィクターが、「ぶわっはははははっ!」と笑い出した。


 今度はマリーの方が目を丸くする番だった。



「はは……いや、なんと辛辣なご令嬢だ」



 まだまだ笑い足りないというように肩を震わせるヴィクターの瞳は、先ほどの空虚な冷たさを微塵も感じさせなかった。



「君の言うとおりだよ、シュミット嬢。不躾に、失礼した。彼にも伝えておくよ、『自分で探せ』ってね」



「え。あ、いえ。わたくしこそ、身分も弁えず少々口が過ぎましたわ」



「……少々? ……くく」



 笑いを止める気がない様子のヴィクターを気にもせず、マリーは言葉を続ける。



「ですが、そうしていただいた方が、シーナ……ロシーナもきっと、嬉しいでしょうから」



「ロシーナ嬢が、大切なんだね」



「ええ、もちろん。大切な友人ですもの」



 マリーが本を片手に立ち上がる。



「そろそろ講義の時間ですわね。それでは、失礼いたします」



 膝を折ってその場から辞そうとしたマリーに、ヴィクターが困ったように眉尻を下げて尋ねた。



「許してくれるかい? その、本のことも」



 マリーは一瞬目を瞬かせたのち、ヴィクターを見上げにっこりと笑った。



「それとこれとは、話が別ですわ」



 マリーの背中が遠ざかっていく。


 ヴィクターは、ふと目を細めた。



──見覚えは、あった。



 熱を帯びた視線は、珍しいものではない。彼女もまた、そのひとりに過ぎなかった。


 だからこそ、特に気にも留めていなかった。


 声をかければ、同じように頬を染め、求めれば容易く応じる。



──そういう相手だと、思っていたのだ。



 くつりと喉が鳴るのを、思わず片手で抑える。



「……まいったな」




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