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第五夜:白の記憶、夜のつづき

午前四時。


王都が夜明けを迎えるには、まだ少し早い。


『BAR・白の記憶』には、珍しく何人かの客がいた。


カウンターに座っているのは、一人ではない。


勇者。


エルフの女戦士、シルヴィア。


そして――カルバン公爵。


昼間の王都であれば、決して同じ場所にいることなどない三人だった。


勇者はグラスを前に、少し居心地が悪そうに座っている。


シルヴィアは隣との距離を保ちながら、時折、勇者を横目で見る。


公爵はそんな二人を静かに眺めていた。


三人の間には、なんとも言えない緊張感がある。


勇者の手は、時折、腰の剣へ伸びる。


シルヴィアも細剣を手放してはいない。


公爵は腕を組んだまま、二人を警戒している。


そんな空気の中。


カウンターの向こうで、蓮はいつもと変わらない顔をしていた。


「皆様」


三人が蓮を見る。


「今夜は少し冷えますね」


「……そうだな」


勇者が答える。


蓮は棚から二本のボトルを取り出した。


ジン。


そしてベルモット。


ミキシンググラスに氷を入れる。


カラン。


酒を注ぐ。


バースプーンを手に取る。


クル。


クル、クル。


氷の間をスプーンが滑っていく。


静かな水音。


それだけだった。


けれど。


いつの間にか、三人の肩から力が抜けていた。


蓮は三つのグラスへ、ゆっくりと酒を注ぐ。


オリーブを一粒。


「お待たせいたしました」


「これは?」


「『マティーニ』でございます」


三人がそれぞれグラスを手に取る。


勇者が一口。


「……苦い」


シルヴィアが笑った。


「ふふ。甘い酒ばかり飲んでいるからだ」


「何だと?」


「お二人とも」


公爵がため息をつく。


「酒の味くらいで喧嘩をするな」


「公爵様に言われたくないですよ」


勇者が笑う。


「政治の話になると、もっと怖い顔をするじゃないですか」


「……君は」


公爵が呆れたように笑う。


シルヴィアも、いつの間にか笑っていた。


蓮は何も言わず、三人のグラスを眺めている。


少し前まで。


この三人は、それぞれ違う場所で、違うものを背負っていた。


勇者は世界を救う責任。


シルヴィアは、人間への警戒と故郷への誇り。


公爵は、国を背負う立場。


けれど、この店の中では。


誰もが、ただの客だった。


勇者がグラスを置いた。


「……不思議だな」


「何がだ?」


シルヴィアが尋ねる。


「ここにいると、勇者じゃなくてもいい気がする」


公爵が静かに頷く。


「私も同じだ」


「公爵様も?」


「ああ」


公爵はグラスを見つめた。


「ここでは、肩書きを名乗る必要がない」


シルヴィアは少し考えた。


そして、勇者へグラスを差し出す。


「人間の勇者」


「ん?」


「外では、私はお前たち人間を警戒している」


勇者もグラスを近づける。


「俺も、エルフには何度も怒られてきたよ」


「……それはお前が悪いのだろう」


「たぶん、そうだな」


二人は笑った。


公爵もグラスを差し出す。


「では」


三つのグラスが中央へ集まる。


カラン。


小さく、美しい音が響いた。


「乾杯」


その瞬間。


店の空気が、少しだけ柔らかくなった。


窓の外を見る。


夜の闇が、ほんの少しずつ薄くなっている。


遠くの空が、白み始めていた。


蓮はカウンターの内側から、三人のグラスへ水を足した。


その光景を眺めながら、ふと思う。


人は皆。


外の世界では、何かの名前を背負って生きている。


勇者。


エルフ。


公爵。


王。


兵士。


魔王。


けれど。


この店の扉を開けた瞬間だけは。


その名前を置いていける。


ただの一人の客として、座っていられる。


それだけでいい。


蓮は、静かにグラスを磨いた。


カウンターに朝の光が差し込む。


白く、柔らかな光だった。


やがて勇者が立ち上がる。


「マスター」


「はい」


「また来るよ」


「いつでもお待ちしております」


シルヴィアも立ち上がった。


「次は、アレキサンダーを頼む」


「かしこまりました」


公爵も笑う。


「私は、前回のモヒートを」


「承知いたしました」


三人が店を出ていく。


カラン。


ドアベルが鳴る。


静かな店内に、また一人きりになる。


蓮は三人が座っていたグラスを片付ける。


そして最後に、カウンターを静かに拭いた。


そのとき。


カラン。


再び、ドアベルが鳴った。


蓮が顔を上げる。


まだ夜は明けきっていない。


扉の向こうに、誰かが立っている。


「いらっしゃいませ」


蓮は、いつものように微笑んだ。


『BAR・白の記憶』。


その夜は、まだ終わらない。


今日もまた。


どこかで迷った誰かが、この扉を開く。


そして――


新しい一杯の物語が、始まる。

『黒衣のバーテンダー ― 異世界の夜を満たす ―』を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!

チートがなくても、プロの誇りと極上の一杯があれば、異世界だって救える。そんな蓮のマスターとしての格好良さを、少しでも楽しんでいただけていれば幸いです。

本作を気に入っていただけましたら、ぜひブックマークや評価で応援していただけると、今後の新しい執筆の大きな力になります!また別の夜、新しい物語でお会いしましょう。本当にありがとうございました!

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