第六夜:まだ、酒じゃない
第二章の幕が上がります。
今回のテーマは、「お酒の文化がまだ未熟な異世界に、現代の高度なお酒の造り方(醸造・蒸留・長期熟成)を持ち込んで、異世界の飲食ギルドや頑固な職人たちの常識をひっくり返していく【お酒のイノベーション(内政・開発)無双】」
どうぞお楽しみください!
深夜一時。
王都の夜は静かだった。
『BAR・白の記憶』の小さな灯りだけが、細い路地を照らしている。
カラン。
扉が開いた。
入ってきたのは、まだ若い男だった。
服には酒造りの仕事でついた染みがいくつも残っている。
髪にも、ほんのりと麦と木の香りが染みついていた。
男はカウンターまで歩いてくると、椅子に腰を下ろした。
「……水を」
「かしこまりました」
蓮がグラスを差し出す。
男は一気に飲み干した。
それでも足りないように、もう一度グラスを差し出す。
蓮は何も言わず、水を注いだ。
二杯目を飲み終えたところで、男はようやく息を吐いた。
「……すみません」
「いえ」
「酒場なのに、水ばかりで」
「お疲れのようですから」
男は苦笑した。
「……分かりますか」
「少しだけ」
男はしばらく黙っていた。
そして、足元に置いていた小さな瓶をカウンターへ置いた。
瓶の中には、白く濁った液体が入っている。
「これ……飲んでもらえますか」
「よろしいのですか?」
「はい」
男は目を伏せた。
「俺が造った酒です」
蓮は瓶を手に取った。
光にかざす。
濁りがある。
香りを確かめる。
果実のような甘い香り。
その奥に、少し荒々しいアルコールの匂いがある。
蓮は小さなテイスティンググラスに、ほんの少しだけ注いだ。
口に含む。
舌の上に、強い刺激が広がった。
けれど、その奥には確かに果実の風味がある。
悪くない。
むしろ――
素材そのものには、面白い個性がある。
蓮はグラスを置いた。
「……美味しいですね」
男が顔を上げた。
「本当ですか?」
「はい」
その一言を聞いただけで、男の目が少し潤んだ。
「でも……」
蓮は続けた。
「少しだけ、もったいないですね」
男の表情が止まった。
「もったいない?」
「このお酒には、もっと良くなる余地があると思います」
男はしばらく蓮を見つめていた。
やがて、ぽつりと口を開く。
「……マルクっていいます」
「マルクさん」
「王都の酒造ギルドで働いてます。まだ見習いですけど」
マルクは瓶を見つめた。
「俺は、もっと飲みやすい酒を造りたいんです」
「飲みやすい酒?」
「はい」
少しずつ、言葉が出てくる。
「強いだけの酒じゃなくて……香りがあって、果物みたいに爽やかで。酒が苦手な人でも、一口飲んでみようって思えるような酒を」
蓮は黙って聞いている。
「エルフの人たちにも飲んでもらいたい。女性にも。酒に弱い人にも」
マルクは拳を握った。
「でも……」
その手が震える。
「親方に、全部否定されました」
「……そうでしたか」
「『こんなナヨナヨしたものは酒じゃない』って」
マルクは笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「『酒ってのは喉を焼いて、腹の底まで熱くするもんだ』って」
俯いた顔から、涙が一粒落ちた。
「俺だって分かってるんです。親方が、このギルドをずっと守ってきたことくらい」
「はい」
「でも……俺は、違う酒を造ってみたい」
マルクは唇を噛んだ。
「なのに、俺の造った酒は全部捨てられました」
店内に静寂が戻る。
蓮は、もう一度グラスを手に取った。
マルクの酒を、ほんの少しだけ口に含む。
今度は、ゆっくり味わった。
荒い。
確かに荒い。
けれど、果実の香りが消えているわけではない。
むしろ、その奥に残っている。
蓮はグラスを置いた。
「マルクさん」
「……はい」
「あなたのお酒は、まだ完成していません」
マルクの肩が落ちる。
「やっぱり……」
「ですが」
蓮は続けた。
「だからといって、失敗でもありません」
マルクが顔を上げる。
「この香りは、捨てるには惜しいです」
「……本当に?」
「ええ」
蓮は瓶を見つめた。
「お酒は、造った瞬間が完成とは限りません」
「……?」
「時間を味方につける方法もあります」
マルクは黙っている。
蓮はカウンターの奥へ視線を向けた。
そこには、いくつものボトルが静かに並んでいた。
「木の樽に、お酒を眠らせる方法をご存じですか?」
「樽に?」
「はい」
マルクは首を傾げた。
「もちろん知っています。酒を運んだり、保管したりするためのものですよね」
「ええ」
蓮は頷いた。
「ですが――それだけではありません」
マルクの目が、わずかに変わった。
蓮は棚から一枚の紙を取り出した。
そこへ、一本の樽を簡単に描く。
「木の種類」
「樽の厚み」
「内側の焼き方」
「そして、眠らせる時間」
一つずつ、指で示していく。
「それらによって、お酒の香りや色、口当たりは大きく変わります」
マルクは紙に描かれた樽を食い入るように見ていた。
「……樽が、酒の味を変える?」
「はい」
「そんな……」
マルクは小さく呟いた。
「樽は、ただ酒を入れておくものだと思ってました」
蓮は微笑んだ。
「そこから先は、職人の仕事です」
マルクは顔を上げた。
その目には、先ほどまでの涙とは違う光が宿っていた。
「……俺にも、できるでしょうか」
「それは、マルクさん次第です」
蓮は静かにグラスを磨いた。
「私は方法をお伝えすることはできます」
「……はい」
「ですが、どんな酒にするかを決めるのは、造る人です」
マルクはしばらく黙っていた。
やがて、瓶を両手で抱えるように持った。
「……もう一度、やってみたい」
「はい」
「俺、自分の酒を造りたいです」
その声には、もう迷いがなかった。
マルクは立ち上がる。
「マスター」
「はい」
「また来てもいいですか?」
「もちろんです」
マルクは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
カラン。
扉が閉じる。
蓮は一人、カウンターに残った。
先ほどまでマルクが座っていた場所を見る。
そこには、飲みかけの水のグラスが残っていた。
蓮はそれを下げる。
そして、カウンターを静かに拭いた。
まだ、酒ではない。
けれど――
酒になる可能性は、確かにそこにあった。
『BAR・白の記憶』の夜に。
また一つ、新しい物語が始まった。




