第四夜:孤独な魔王と、燃える氷
『BAR・白の記憶』が、王国の最高聖域に指定されてから数日。
その夜も、店には静かな時間が流れていた。
客は誰もいない。
蓮はカウンターの内側で、グラスを磨いている。
窓の外には、月明かりに照らされた王都の街並み。
遠くで馬車の音が聞こえる。
カラン。
午前三時。
ドアベルが鳴った。
蓮は顔を上げる。
入ってきた男は、黒いコートをまとっていた。
長身。
整った顔立ち。
そして――
妙に静かな目をしている。
男が一歩、店の中へ入る。
空気が変わった。
まるで、冬の夜がそのまま店内へ入り込んできたようだった。
男は何も言わず、カウンター中央の椅子に腰を下ろした。
「……面白い店だな」
低い声。
「ありがとうございます」
蓮はいつもと変わらない。
男は、蓮をじっと見つめた。
「我のことを恐れないのか?」
「お客様を恐れる理由はございませんので」
男の口元が、わずかに歪んだ。
「そうか」
その瞬間。
店内の空気が、さらに重くなる。
普通の人間なら、立っていることすら難しいほどの圧力。
けれど蓮は、グラスを磨き続けている。
男は小さく笑った。
「この街には、我を見ただけで震え上がる者ばかりだ」
「そうですか」
「ならば、少しは楽しませてもらおう」
男はカウンターに指を置いた。
「この我を満足させる酒を出せ」
「かしこまりました」
「もし退屈な酒なら――」
男の目が細くなる。
「この街ごと灰にするかもしれんぞ」
蓮は少しも動じなかった。
「それでは、お客様がお帰りになるまでに、もう一杯お作りいたします」
「……ほう?」
蓮は棚から三本のボトルを選んだ。
コーヒーのリキュール。
アイリッシュクリーム。
そして、オレンジの香りを持つスピリッツ。
男は黙って見ている。
蓮はそれぞれを小さなグラスへ静かに注いだ。
混ざらないように。
一層ずつ。
茶。
白。
透明。
三つの色が、美しく重なる。
最後に蓮はマッチを擦った。
シュッ。
小さな炎が生まれる。
そして、その火をグラスへ近づける。
青い炎が、静かに揺れた。
男の目が細くなる。
「……炎?」
「『B-52』でございます」
青い炎が、グラスの上で踊っている。
冷たい液体と、熱い炎。
相反するものが、一つのグラスの中に同居していた。
「面白い」
男は、ほんの少しだけ笑った。
「どう飲む?」
「炎が消える前に、ストローで底から一気にお召し上がりください」
「なるほど」
男は言われた通り、ストローを差し込んだ。
そして、一気に吸い込む。
最初に広がったのは、コーヒーの苦み。
続いて、クリームの甘み。
そして最後に、喉の奥を駆け抜ける熱。
男はゆっくりと目を閉じた。
「…………」
しばらくして。
「……見事だ」
グラスを置く。
「冷たい夜の底に、炎を隠している」
男は、残った青い炎を見つめた。
「まるで我そのものだな」
「お気に召しましたか?」
「うむ」
男は静かに笑った。
「実に気に入った」
蓮は空いたグラスを下げる。
「それは何よりでございます」
男は、ふと蓮を見る。
「……お前」
「はい」
「我が何者なのか、分かっているな?」
蓮は少しだけ微笑んだ。
「お客様がどなたであろうと、当店では変わりません」
「ほう」
「今夜、お酒を必要とされているお客様です」
男はしばらく黙っていた。
そして――
「……クク」
小さく笑い始めた。
「面白い男だ」
その笑い声には、先ほどまでの殺気がなかった。
「よかろう」
男は立ち上がる。
「我は魔王だ」
蓮は驚かなかった。
「やはり、そうでしたか」
「知っていたか」
「なんとなく、ではございますが」
魔王は愉快そうに笑った。
「この街の人間どもは、我を恐れる」
黒いコートを翻す。
「だが、この店は気に入った」
扉へ向かいながら、魔王は振り返った。
「マスター」
「はい」
「お前がこの店を開いている間は、この街には手を出さん」
「……ありがとうございます」
「礼などいらん」
魔王は少しだけ笑った。
「これは、我からのチップだ」
カラン。
扉が閉じる。
静寂が戻った。
蓮はしばらく閉じた扉を見つめていた。
そして、いつものようにグラスを磨き始める。
魔王が座っていた場所には、一枚の金貨が残されていた。
月明かりを受けて、それが静かに輝いている。
その夜。
『BAR・白の記憶』には――
魔王という、四人目の奇妙な客が加わった。




