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第三夜:胃痛の公爵と、緑の聖域

深夜二時。


王都の夜は、すっかり静まり返っていた。


『BAR・白の記憶』の前を通る者も、もうほとんどいない。


カラン。


重い音を立てて、扉が開いた。


入ってきた男を見て、蓮はわずかに目を止めた。


仕立てのいい黒いマント。


白髪の混じった髪。


年齢を重ねた顔には、長い年月を生きてきた者だけが持つ、静かな威圧感がある。


だが――


今夜ばかりは、その威厳も影を潜めていた。


男は片手で腹部を押さえながら、ゆっくりとカウンターへ歩いてきた。


「……席を、いいかね」


「もちろんです。どうぞ」


男は椅子に腰を下ろした。


深いため息が漏れる。


「……マスター」


「はい」


「酒は……今日はやめておこう」


「かしこまりました」


「何か、胃に優しいものを頼めるかね」


蓮は男の顔を見る。


疲れている。


それだけではない。


ここ数日、まともに眠れていないのだろう。


目の下には濃い影が落ちていた。


「承知いたしました」


「助かる」


男はネクタイを少し緩めた。


「どうも最近、食事すらまともに喉を通らなくてな」


「お仕事がお忙しいのでしょうか」


男は苦笑した。


「仕事……か」


その一言だけで、随分と疲れていることが分かった。


「予算の話をすれば揉める」


「はい」


「人事の話をすれば揉める」


「大変ですね」


「何を決めても、誰かが文句を言う」


男は遠い目をした。


「政治というものは、胃に悪い仕事だよ」


蓮は少しだけ微笑んだ。


「では、今夜は政治から離れていただきましょう」


「そんなことができるのかね」


「こちらでは、皆様に少しだけ肩書きを置いていただいておりますので」


男が蓮を見る。


「……面白いことを言う」


蓮は答えず、カウンターの奥へ向かった。


取り出したのは、新鮮なミントの葉。


そして、ライム。


ミントをグラスへ入れる。


ライムを絞る。


爽やかな香りが、店内にふわりと広がった。


男は思わず顔を上げた。


「……いい香りだな」


蓮はライムを軽く潰し、ミントの香りを引き出していく。


そこへシロップ。


細かく砕いた氷。


そして炭酸水。


シュワッ。


小さな泡がグラスの中を駆け上がる。


最後に蓮は、ミントの葉を整えた。


「お待たせいたしました」


差し出されたグラスの中で、緑の葉と氷が静かに揺れている。


「『バージン・モヒート』でございます」


男はグラスを覗き込んだ。


「これは……酒ではないのか?」


「はい。今夜はアルコールを入れておりません」


「それはありがたい」


男はストローに口をつけた。


一口。


目を閉じる。


ライムの爽やかな酸味。


ミントの清涼感。


炭酸の軽やかな刺激。


そして、ほんのりとした甘み。


「……ふう」


男の口から、長いため息がこぼれた。


今度のため息には、先ほどまでの苦しさがない。


「これは……いいな」


もう一口。


今度はゆっくり味わう。


「身体が軽くなるようだ」


「それは何よりでございます」


男はグラスを眺めた。


「こんなものが、王都の片隅にあるとはな」


「まだまだ知られていない店ですから」


「……それは惜しい」


男は少し笑った。


その笑顔を見て、蓮も静かに微笑む。


しばらく、二人の間に会話はなかった。


男はグラスを傾ける。


蓮は黙ってグラスを磨く。


ただ、それだけだった。


けれど男にとっては、その静けさが心地よかった。


誰かに決断を迫られることもない。


誰かの顔色を読む必要もない。


ここでは、ただ一人の客として座っていられる。


やがてグラスが空になった。


男は、ゆっくりと息を吐いた。


「……マスター」


「はい」


「君は、不思議な人間だな」


「そうでしょうか」


「私が誰なのか、聞かないのかね?」


蓮は首を横に振った。


「お客様がどなたであっても、当店では同じお客様です」


男はしばらく黙っていた。


そして、小さく笑った。


「なるほど」


席を立つ。


「では、今夜の私は――ただの疲れた老人ということにしておこう」


「かしこまりました」


男は懐から金貨を取り出した。


そしてカウンターへ置く。


「また来てもいいかね?」


「いつでもお待ちしております」


男は頷き、店を出ていった。


カラン。


扉が閉まる。


その夜は、それだけだった。


――そのはずだった。


翌朝。


王都の役人たちは、一枚の命令書を前にして騒然となった。


そこに記されていたのは――


『BAR・白の記憶』周辺一帯を、国家最高聖域とする。


許可なく武器を持ち込むこと。


店内で争いを起こすこと。


マスターの許可なく客を拘束すること。


これらを一切禁ずる。


命令書の末尾には、見覚えのある紋章が刻まれていた。


カルバン公爵。


王国の政を陰から支える、最高位の権力者の一人だった。


「公爵閣下が……?」


役人たちは顔を見合わせた。


いったい、何があったのか。


そして夜。


いつものように『BAR・白の記憶』には、小さな灯りがともった。


蓮は何も知らず、いつものようにグラスを磨いている。


まだ、彼は知らない。


昨夜訪れた一人の客が――


この小さなBARを、王国で最も安全な場所の一つに変えてしまったことを。


そして。


この店を訪れる客が、少しずつ、とんでもない人物たちへ変わっていくことも。


夜は、まだ始まったばかりだった。

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