第二夜:誇り高きエルフと、禁断の果実
カラン。
夜もかなり深くなった頃。
『BAR・白の記憶』の扉が開いた。
入ってきたのは、一人の女だった。
長く伸びた銀色の髪。
月明かりを思わせる白い肌。
そして、人間にはない、尖った耳。
エルフだった。
女は店内をゆっくりと見回すと、わずかに眉をひそめた。
「……ここが、人間の酒場か」
腰には細身の剣。
森から出てきたばかりなのか、旅装には小さな葉がいくつも絡みついている。
それでも、その立ち姿には隙がない。
彼女はカウンターの端に腰を下ろした。
そして、店の棚に並ぶ酒瓶を眺めながら、鼻を鳴らす。
「……フン」
蓮が静かに声をかけた。
「いらっしゃいませ」
「人間の作る酒など、どれも泥水のように苦くて野蛮なものばかりだ」
随分と辛辣な言葉だった。
けれど蓮は、気にした様子もない。
「そうでしたか」
「私たちエルフは、森の果実を大切にする。朝露を含んだ実を摘み、その香りと甘みを楽しむのだ」
女は胸を張った。
「強さだけを競う人間の酒とは違う」
「なるほど」
蓮は小さく頷いた。
「では、甘く香りのあるものがお好みなのですね」
「……そういうことだ」
少しだけ得意げな顔をする。
「ですが、この街にそんな酒があるとは思えません」
「それでしたら、一杯お作りいたしましょう」
蓮は棚へ向かった。
女――シルヴィアは、その後ろ姿をじっと見つめていた。
「……本当に作れるのか?」
蓮は答えず、一本のボトルを取り出した。
続いて、別のボトル。
そして冷蔵庫から、生クリームを取り出す。
「それは……?」
「カカオのリキュールでございます」
蓮はボトルを傾け、静かに計量する。
シルヴィアは思わず身を乗り出した。
酒を作るというより、何かの薬を調合しているようにも見える。
蓮はシェーカーを手に取った。
氷を入れる。
カラン。
その音に合わせるように、リキュールと生クリームが注がれていく。
そして。
蓮の手が動いた。
カシャ。
カシャ、カシャ、カシャ。
一定のリズム。
力任せではない。
シェーカーを振るたび、氷が軽やかな音を立てる。
その動きには、余計なものが一つもなかった。
シルヴィアは、いつの間にか言葉を失っていた。
「…………」
人間の酒など、大したものではない。
そう思っていた。
だが――
この男の手元から目を離せない。
最後に蓮は、冷やしておいたカクテルグラスを取り出した。
シェーカーの中身を、ゆっくりと注ぐ。
淡い茶色の液体が、グラスの中へ滑り込んでいった。
仕上げに、ほんの少しだけシナモンを振る。
甘く、香ばしい香りが広がった。
「お待たせいたしました」
目の前に置かれた一杯を、シルヴィアはじっと見つめる。
「……これが?」
「『アレキサンダー』でございます」
シルヴィアはグラスを持ち上げた。
ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。
「……本当に酒なのか?」
「お口に合えばよろしいのですが」
シルヴィアは、恐る恐る口をつけた。
その瞬間。
目が見開かれた。
「……!」
口の中に広がったのは、濃厚で滑らかな甘み。
カカオの香ばしさ。
そして生クリームの柔らかなコク。
これまで知っていた酒とは、まるで違う。
強い酒の刺激は、決して消えてはいない。
それなのに、全体が驚くほど穏やかにまとまっている。
シルヴィアは、もう一口飲んだ。
そして、さらにもう一口。
「……美味しい」
思わず漏れた声だった。
「…………」
シルヴィアは慌てて口を閉じる。
「……いや」
蓮が微笑む。
「ありがとうございます」
「違う。今のは、その……」
耳まで赤くなっている。
「……人間の酒にしては、悪くないと言っただけだ」
「かしこまりました」
「……何だ、その顔は」
「いえ」
蓮はそれ以上何も言わず、静かにグラスを磨いていた。
シルヴィアは、もう一度カクテルを口に運ぶ。
今度は先ほどよりもゆっくりと。
甘さが舌の上でほどけていく。
その香りは、どこか森を思わせた。
遠い故郷で、幼い頃に食べた果実。
木漏れ日の中で、家族と囲んだ食卓。
忘れていた記憶が、ほんの少しだけ胸の奥に浮かんだ。
「……不思議だな」
「はい?」
「こんな味は、初めてだ」
シルヴィアはグラスを見つめた。
「甘いのに、子供っぽくない。優しいのに、物足りなくもない」
そして、小さく笑う。
「……森の果実とは違う」
蓮は頷いた。
「人間の世界にも、人間の世界で育った味わいがございます」
「そうか」
シルヴィアはしばらく考えていた。
やがて、細剣から手を離す。
店に入ってからずっと柄に添えていた手だった。
「……人間の技術を、少しだけ見直してやろう」
「それは光栄です」
「少しだけだからな」
「承知しております」
シルヴィアは、ふっと笑った。
その表情から、最初に見せた険しさは消えていた。
やがてグラスが空になる。
シルヴィアは、空になったグラスと蓮を交互に見た。
「……マスター」
「はい」
「その……」
ほんの少し、言いにくそうに視線を逸らす。
「もう一杯、もらえるか?」
「喜んで」
蓮が再びシェーカーを手に取る。
カシャ、カシャ、カシャ。
静かな店内に、心地よい音が響き始めた。
シルヴィアはその音を聞きながら、今度は警戒することなく、その手元を眺めている。
夜の王都には、まだ知らないことがたくさんある。
人間の酒も。
人間の技術も。
そして――
自分がこんな場所で、こんなにも穏やかな気持ちになれることも。
『BAR・白の記憶』
その夜。
誇り高きエルフは、一人のバーテンダーと、一杯のカクテルによって。
ほんの少しだけ、人間の世界を好きになった。




