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『黒衣のバーテンダー ― 異世界の夜を満たす―』   作者: 蒼井 律
第八章:【星屑のトワイライト編】
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第三十八夜:黒き麦酒と、夜市の温もり

 三日目の夜。


 BAR『白の記憶』の扉を開けると、冷たい夜風が店内へ流れ込んできた。


 少女は、扉の向こうをじっと見つめていた。


 これまでなら、夜の街を見るだけで不安そうにしていた。


 けれど今夜は違う。


 銀色の瞳に、ほんの少しだけ好奇心が浮かんでいる。


「外へ出てみますか?」


 カウンターの向こうから、蓮が声をかけた。


「……外?」


「ええ」


 少女はしばらく考えた。


「怖くないかな」


「私が一緒にいます」


 その言葉に、少女は小さく頷いた。


「……行ってみたい」


 蓮は店の灯りを落とし、扉を閉めた。


 王都の夜は、昼間とはまったく違う顔をしていた。


 石畳の通りには、魔法の灯籠が並んでいる。


 赤。


 青。


 金色。


 淡い緑。


 それぞれの光が石畳を照らし、人々の影を長く伸ばしていた。


 通りには、まだ多くの人がいる。


 仕事を終えた職人。


 荷物を抱えた商人。


 鎧を脱いだ冒険者。


 屋台を囲んで笑う子供たち。


 少女は足を止めた。


「……こんなに、人がいる」


「夜市ですから」


「夜なのに?」


「この王都では、夜だからこそ賑わう場所もあります」


 少女は、ゆっくりと辺りを見渡した。


 空の星とは違う。


 けれど、そこにある灯りもまた、誰かの暮らしから生まれている。


「……あったかい」


 少女が呟いた。


「ええ」


 蓮は微笑んだ。


 二人はゆっくりと夜市を歩いた。


 香ばしい肉の焼ける匂い。


 甘い菓子。


 香辛料。


 焼きたてのパン。


 酒。


 笑い声。


 どこかで誰かが弾く、少し外れた楽器の音。


 少女は何度も足を止めた。


 何もかもが珍しかった。


 そして――


 ふと、少女のお腹が小さく鳴った。


「……」


 少女が恥ずかしそうに俯く。


 蓮は何も言わなかった。


 ただ、少し先にある屋台へ目を向けた。


 大きな鉄板。


 木樽。


 無骨な銅のマグ。


 その向こうに、髭だらけのドワーフが腕を組んで立っている。


「おう!」


 ドワーフが声を上げた。


「蓮じゃねえか!」


「お久しぶりです」


「珍しいな。店を出て歩いてるとは」


 ドワーフは少女を見る。


「……ん?」


 少女が少し身構えた。


 けれど、ドワーフはすぐに豪快に笑った。


「なるほど。今日は可愛い客連れか!」


「少し、街を見せているところです」


「そうかそうか!」


 ドワーフは樽を叩いた。


「なら、うちの夜の味でも飲んでいきな!」


 銅のマグへ黒い麦酒を注ぐ。


 濃い色。


 泡。


 香ばしい麦の匂い。


 少女はマグを見つめた。


「これは……?」


「黒麦酒だ!」


 ドワーフが胸を張る。


「この辺りじゃ昔から飲まれてる。苦いぞ!」


 少女が少しだけ困った顔をする。


 蓮は笑った。


「そのままでは、少し苦いかもしれませんね」


「おう?」


 蓮は屋台の材料を見渡した。


 夜市で売られている蜂蜜。


 そして、香りの良い乾燥スパイス。


「少しだけ、お借りしても?」


「もちろんだ!」


 蓮は小鍋を借りた。


 黒麦酒を静かに注ぐ。


 火にかける。


 沸騰させないよう、ゆっくり温めていく。


 そこへ蜂蜜を一匙。


 さらに、ほんの少しだけスパイスを加える。


 店で作るカクテルとは違う。


 ここにある材料だけ。


 この街の酒。


 この夜市の蜂蜜。


 そして、蓮の手。


 それだけだった。


「どうぞ」


 温かな銅のマグを少女へ差し出す。


「今夜の夜市の味です」


 少女は両手でマグを包んだ。


 湯気が頬に触れる。


 そして、一口。


「……」


 苦い。


 最初に感じたのは、麦のしっかりとした苦みだった。


 けれど、そのすぐ後に蜂蜜の柔らかな甘さが広がる。


 最後にスパイスの温かさ。


 冷たい夜風の中で飲むと、その温もりが身体の奥へゆっくり沈んでいった。


「……少し、苦い」


 少女が言う。


 ドワーフが笑った。


「そうだろう!」


「でも……」


 もう一口。


「甘い」


「だろう!」


 少女の顔に、小さな笑みが浮かんだ。


「それが夜の味ってもんだ!」


 ドワーフは豪快に笑った。


 周囲にいた客たちも、つられるように笑う。


 その光景を、少女は不思議そうに見ていた。


「みんな……笑ってる」


「ええ」


「どうして?」


 蓮は、通りの人々を見た。


 仕事で疲れた戦士。


 売り上げを数える商人。


 酒を片手に談笑する職人。


 誰もが、昼間にはそれぞれの苦労を抱えている。


 けれど、夜になればこうして一杯を囲む。


「今日一日を終えたからでしょう」


「……終わったら、笑うの?」


「そういう日もあります」


 少女は、少し考えた。


「私も……?」


「もちろんです」


 少女はもう一度、マグを口に運んだ。


 黒い麦酒。


 蜂蜜。


 スパイス。


 そして、人々の笑い声。


 それらが混ざり合った夜の味。


 しばらくして、少女が空になったマグを見つめた。


「……これ」


「はい」


「覚えておきたい」


 蓮は静かに微笑んだ。


「では、覚えておきましょう」


「この味も」


「ええ」


「この街も」


「ええ」


「この人たちも」


 蓮は頷いた。


「それは、あなた自身の記憶になります」


 少女は少しだけ目を細めた。


 そのときだった。


 少女の髪から、一粒の光がこぼれた。


 銀色の光。


 それは今までよりも長く空中に残り、少女の肩の周りを小さく一周して消えた。


「……今の」


 少女が自分の手を見る。


「昨日より、光ってる」


「そうですね」


「どうして?」


 蓮は夜空を見上げた。


「少し、地上のことを好きになったからかもしれませんね」


 少女も空を見た。


 王都の夜空。


 その向こうには、自分がいたかもしれない星々がある。


 けれど今夜は――


 それだけではなかった。


 足元には、人々が作った灯りがある。


 隣には蓮がいる。


 手の中には、まだ少しだけ温かいマグがある。


 少女は小さく笑った。


「……地上も、悪くないね」


「そうでしょう?」


 二人は夜市をゆっくりと歩き始めた。


 帰り道。


 少女は何度も振り返った。


 魔法の灯籠。


 屋台の火。


 笑い声。


 黒い麦酒の香り。


 そして、夜の街に暮らす人々。


 どれも、少女の記憶にはなかった。


 けれど――


 これから覚えていくことはできる。


 BAR『白の記憶』へ戻る路地の入口で、少女が立ち止まった。


「マスター」


「はい」


「私……名前を思い出せなくても」


 少しだけ空を見上げる。


「こうやって、新しいことを覚えていってもいいのかな」


 蓮は、いつもの穏やかな笑顔で答えた。


「もちろんです」


 少女は笑った。


「じゃあ、今夜も覚えた」


「何をでしょう?」


「夜の街は、苦くて、甘くて……あったかいってこと」


 蓮は小さく頷いた。


「良い記憶になりましたね」


 二人は再び歩き始めた。


 夜空には、無数の星が輝いている。


 その中に一つだけ。


 少しだけ弱く瞬く星があった。


 まるで地上にいる少女を、遠くから見守るように。


 少女はまだ、それに気づいていない。


 けれど――


 帰るべき場所への記憶は、確かに少しずつ近づいていた。

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