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『黒衣のバーテンダー ― 異世界の夜を満たす―』   作者: 蒼井 律
第八章:【星屑のトワイライト編】
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第三十六夜:路地裏に舞い降りた、冷たい光

こんばんは。蒼井 律です。


第八章【星屑のトワイライト編】開幕です!


夜空には、無数の星がある。


けれど、そのすべてが同じ場所にあるとは限らない。


遠く離れた星。


帰ることのできない星。


そして――

何かの拍子に、地上へ迷い込んでしまう星もあるのかもしれない。


もし、そんな星が一人の少女の姿で、夜の路地裏に落ちてきたら。


記憶を失い、自分が何者なのかも分からない彼女を、蓮はどんな一杯でもてなすのだろう。


今夜の『白の記憶』に訪れるのは、これまでの客とは少し違う。


酒を求めているわけでもない。


答えを求めているわけでもない。


ただ――

帰る場所を、探している。


これは、夜空から迷い込んだ一人の少女と、

一人のバーテンダーが過ごす、静かで少し不思議な数夜の物語。


星が消える前に。


どうか、最後まで見届けてください。


 王都の夜は、静かだった。


 昼間ならば人々の声や馬車の音が行き交う大通りも、深夜になればその喧騒をすっかり失っている。


 石畳の路地裏。


 その一角に、控えめな灯りをともす店があった。


 BAR『白の記憶』。


 開店して、まだ一年にも満たない。


 王都の中心から少し外れた、人通りの少ない場所。


 それでも、夜になると不思議と人が訪れる。


 今夜も蓮は、誰もいない店内でカウンターを磨いていた。


 布が木目の上を滑る。


 酒瓶の並ぶ棚。


 磨き上げられたグラス。


 小さなランプの灯り。


 いつもの夜だった。


 ――そのはずだった。


 カラン。


 扉のベルが鳴った。


 いつもの客なら、もっと大きな足音がする。


 酔った声が聞こえることもある。


 だが今夜は違った。


 足音が、ない。


 ただ――


 ふわり。


 何かが夜の中から滑り込んできたような気配だけがあった。


「……いらっしゃいませ」


 蓮は顔を上げた。


 そして、一瞬だけ言葉を失った。


 扉の前に、一人の少女が立っていた。


 銀色の髪。


 白い肌。


 十代半ばほどに見える、小さな身体。


 けれど、普通の少女ではない。


 髪の先から、淡い光がこぼれている。


 まるで細かな星屑が、彼女の身体から剥がれ落ちているようだった。


 光の粒は床へ落ちる前に消え、また新しい光が少女の肩口で生まれる。


 その姿は美しかった。


 ――同時に、ひどく危うかった。


 服はところどころ破れ、細い腕はむき出しになっている。


 そして何より。


 寒い。


 蓮は一目でそう感じた。


 冬の夜に凍えた人間の冷たさではない。


 もっと深い。


 もっと遠い。


 まるで、何もない宇宙の闇に長い間さらされていたような冷たさだった。


 少女は、ぼんやりと店内を見渡した。


 その瞳には、恐怖があった。


 けれど、それ以上に――


 何も分からないという空白があった。


 自分がどこにいるのか。


 なぜここにいるのか。


 自分が誰なのか。


 何一つ分からない。


 少女の唇が、かすかに動いた。


「……ここ……は……?」


 声は消え入りそうだった。


 蓮が一歩近づく。


「BAR『白の記憶』です」


「……ばー……?」


「ええ」


 少女は、その言葉を理解しようとするように眉を寄せた。


 そして――


 ふらり。


 身体が傾いた。


「おっと」


 蓮はすぐに腕を伸ばした。


 倒れる寸前の身体を、そのまま受け止める。


 冷たい。


 あまりにも冷たい。


 蓮の表情が、ほんのわずかに変わった。


「……ずいぶん冷えていますね」


 少女は答えない。


 ただ、蓮の黒衣を小さな手で掴んだ。


 まるで、それだけが今の彼女にとって唯一の確かなもののように。


「大丈夫ですよ」


 蓮は静かに言った。


「ここでは、急がなくて構いません」


 少女を抱き上げ、店の奥にあるソファへ運ぶ。


 毛布をかける。


 暖炉の火を少し強くする。


 それでも少女の身体は震えていた。


 蓮はカウンターへ戻った。


 酒瓶を選ぶ。


 だが、強い酒ではない。


 今の彼女に必要なのは、酔いではなく――


 温もりだった。


 卵を割る。


 黄身と白身を丁寧に混ぜる。


 温めたミルク。


 ブラウンシュガー。


 そして、ほんの少しのダークラム。


 ナツメグをひと振り。


 火加減を見ながら、ゆっくりと温めていく。


 店内に甘い香りが広がった。


 卵とミルク。


 砂糖の柔らかな香り。


 その奥に、ラムの温かな余韻。


 蓮はマグカップへ注いだ。


「お待たせいたしました」


 少女の前へ運ぶ。


「温かいものをどうぞ」


 少女は毛布の中から顔を出した。


 マグカップを見つめる。


 そして、恐る恐る両手を伸ばした。


 指先が陶器に触れる。


 びくり、と肩が揺れた。


 冷たかった指先に、少しずつ熱が移っていく。


「……あったかい」


 少女が呟いた。


「ええ」


「これ……何?」


「ホット・エッグ・ノッグです」


「……お酒?」


「少しだけ入っています」


 蓮は穏やかに答えた。


「ですが、今夜は酒よりも、温かさを味わってください」


 少女は小さく頷いた。


 そして、マグカップへ口をつける。


 一口。


 卵とミルクの柔らかな甘み。


 ブラウンシュガーのコク。


 その奥から、ダークラムの温かな香りがゆっくりと広がる。


「……」


 少女の瞳が、わずかに見開かれた。


 もう一口。


 今度は少しだけ大きく。


 喉を通った温かさが、胸の奥へ落ちていく。


 冷え切っていた身体の内側に、小さな灯りがともったようだった。


 少女の肩から、ふわりと光がこぼれた。


 先ほどまで不安定だった星屑が、ほんの少しだけ穏やかになる。


「……あたたかい」


 少女はもう一度呟いた。


 今度は、少し笑っていた。


「美味しいですか?」


「……うん」


 少女はマグカップを胸元へ抱えた。


 そして、しばらく考えたあと。


「ねえ……」


「はい」


「私……誰?」


 蓮はすぐには答えなかった。


 少女自身が分からないものを、蓮が勝手に決める必要はない。


「それは、これから一緒に探していけばよろしいのではないでしょうか」


「……一緒に?」


「ええ」


 少女は蓮を見る。


「ここにいる間は、お客様です」


 蓮はいつもの穏やかな笑顔を浮かべた。


「ですから、まずはゆっくり休んでください」


 少女の瞳が、わずかに潤んだ。


「……ありがとう」


 それだけ言うと、少女はマグカップを抱いたまま、ゆっくりと目を閉じた。


 やがて、小さな寝息が聞こえ始める。


 蓮は毛布をもう一度整えた。


 そしてカウンターへ戻る。


 グラスを磨く。


 いつもの夜と同じように。


 ただ一つ違うのは――


 ソファに、星屑をまとった少女が眠っていること。


 蓮は一度だけ、彼女を振り返った。


 銀色の髪の隙間から、小さな光が一粒こぼれる。


 床に落ちる前に消えた。


「……さて」


 蓮は小さく呟いた。


「あなたはいったい、どこから来たのでしょうね」


 答える者はいない。


 店の外では、冷たい夜風が石畳を撫でている。


 その遥か上。


 雲の向こうでは――


 満天の星々が、静かに瞬いていた。


 まるで一つだけ欠けた星を、探しているかのように。


 BAR『白の記憶』。


 その夜、王都の片隅にある小さな店へ――


 一人の「星」が、迷い込んだ。


 そして、その夜から。


 『白の記憶』には、これまでとは少し違う夜が始まった。

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