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第三十五夜:迷える刃と、新たな幕開け

 夜明け前。


 王都が最も静かになる時間だった。


 BAR『白の記憶』の窓には、まだ夜の色が残っている。


 カウンターの奥で、蓮は一人、グラスを磨いていた。


 カラン――。


 扉のベルが鳴る。


 入ってきたのは、一人の男だった。


 年齢は五十を越えているだろう。


 かつて騎士だったのだろうか。


 古びた外套の下から覗く腕には、いくつもの傷跡が残っている。


 腰には剣帯だけがある。


 だが、そこに剣はなかった。


 男はカウンターの前まで来ると、重く椅子へ腰を下ろした。


「……酒をくれ」


「どのようなお酒を?」


「強いものなら、何でもいい」


 男は俯いた。


「できれば……今までのことを全部忘れられるくらいのものを」


 蓮は男を見つめた。


「何かございましたか?」


「何もない」


 男は乾いた笑いを漏らした。


「いや……ありすぎたのかもしれんな」


 しばらく沈黙が続く。


 やがて男が口を開いた。


「私は、王国騎士団にいた」


 その声には、かつての誇りがわずかに残っていた。


「長い間、剣を握ってきた。国のためだと思っていた」


 男は自分の手を見つめる。


「だが、最後に残ったのは……何もなかった」


 騎士団の派閥争い。


 信じていた者たちの裏切り。


 失われた地位。


 そして、剣を置くことになった日。


 それらを一つずつ語ることはなかった。


 ただ、その沈黙だけで十分だった。


「忠義など……何の意味があったのだろうな」


 蓮は答えなかった。


 代わりに棚から一本のボトルを取り出した。


 ホワイトラム。


 コアントロー。


 そして、レモン。


 氷とともにシェーカーへ入れる。


 シャッ、シャッ、シャッ――。


 静かな店内に、シェーカーの音が響いた。


 やがて蓮は、透き通ったカクテルをグラスへ注いだ。


「お待たせいたしました」


 男の前へ差し出す。


「『XYZ』でございます」


 男はグラスを見つめた。


「……XYZ」


「アルファベットの最後の三文字です」


「終わり、ということか」


「そう受け取ることもできます」


 蓮は静かに答えた。


「ですが――」


 そこで言葉を止める。


 それ以上は何も言わなかった。


 男はしばらくグラスを見つめていた。


 やがて、ゆっくりと口をつける。


 ラムの柔らかな甘み。


 コアントローの柑橘の香り。


 そして、レモンの鋭い酸味。


 余計なものを残さない、鋭く澄んだ味だった。


「……すごいな」


 男が呟く。


「何も残らない」


「そうですね」


「苦みも、甘みも……最後には、きれいに消えていく」


 男はもう一口飲んだ。


 その味は、長い年月をかけて身についた鎧を、一枚ずつ削ぎ落としていくようだった。


「まるで……」


 男はグラスを見つめる。


「今までの自分を、ここで終わらせるみたいだ」


 蓮は静かに微笑んだ。


「そういう夜もございます」


 男はしばらく黙っていた。


 そして、ふと自分の腰を見る。


 そこには剣がない。


 かつてなら、それを恥じていた。


 だが今夜は――


 少し違って見えた。


「……剣がなくても、生きていけるのだろうか」


「もちろんです」


 蓮の返事は早かった。


「剣を握っていた時間が、なくなるわけではありませんから」


 男は顔を上げた。


「……そうか」


「経験も、傷も、そこで出会った人々も」


 蓮はグラスを磨きながら続ける。


「すべて、これからのあなたの中に残っています」


 男は目を閉じた。


 長い息を吐く。


 それは、何年も胸の奥に溜めていたものを吐き出すような息だった。


「……忠義に意味がなかったんじゃない」


 男が呟いた。


「俺が、意味を求める場所を間違えていただけなのかもしれんな」


 蓮は何も言わなかった。


 ただ、残ったカクテルを指差す。


「最後の一口をどうぞ」


 男はグラスを持ち上げた。


 そして、ゆっくりと飲み干した。


 空になったグラスを置く。


 カチン。


 小さな音が響いた。


「……ありがとう、マスター」


「こちらこそ」


 男は立ち上がった。


 扉へ向かう。


 そして、そこで一度だけ振り返った。


「この先、何をするかはまだ決めていない」


「それでよろしいと思います」


「……決めなくてもいいのか?」


「朝は、誰かに急かされて来るものではありませんから」


 男は、少しだけ笑った。


「そうだな」


 カラン――。


 扉が開く。


 外の空は、わずかに白み始めていた。


 男は夜明けの路地へ歩いていく。


 剣のない背中。


 けれど、その歩みは来たときよりも真っ直ぐだった。


 扉が閉じる。


 店内に静けさが戻る。


 蓮はカウンターへ戻り、空になったグラスを手に取った。


 水で軽くすすぎ、布で丁寧に磨く。


 窓の外を見る。


 藍色だった空の端に、淡い光が滲んでいる。


 やがて夜は終わる。


 けれど、夜を越えた人間の中には、必ず何かが残る。


 忘れられない言葉。


 誰かの笑顔。


 苦かった酒。


 温かな一杯。


 そして――


 自分自身が、もう一度歩き出したという小さな実感。


 蓮は磨き終えたグラスを、棚の定位置へ戻した。


 カチン。


 その音が、静かな店内に響く。


 まだ開店して一年にも満たない、小さなBAR。


 王都の片隅。


 人通りの少ない路地裏。


 それでも、ここへ訪れる者は少しずつ増えている。


 一杯の酒を飲み、


 誰かが何かを置いていく。


 そして、その余韻を胸に、また夜の向こうへ帰っていく。


 蓮は黒衣の襟元を整えた。


「……さて」


 朝の光が、窓から差し込み始める。


「今夜の仕込みを始めましょうか」


 誰もいない店内で、蓮は静かに微笑んだ。


 BAR『白の記憶』。


 夜は、いつか終わる。


 だからこそ――


 次の夜が、また始まる。


 第七章【一杯の余韻編】

 ――完――


 第七章【一杯の余韻編】、最後までお読みいただきありがとうございました。


 今回の章では、これまでとは少し違う「夜」を描いてみました。


 魔力を失った魔術師。


 伝統と新しい技術の間で揺れる兄弟。


 自分の名前を忘れられた地図職人。


 そして、すべてを失ったと思っていた元騎士。


 彼らは、蓮によって人生を変えてもらったわけではありません。


 蓮がしたことは、ほんの少し。


 一杯を作り、


 話を聞き、


 その人自身が答えを見つけるまで、静かに待つ。


 その一杯を飲み終えたあと、何を持って帰るのか。


 それは、お客様自身が決めることなのだと思います。


 そして今回、少しだけ『白の記憶』そのものについても描きました。


 まだ開店して一年にも満たない。


 王都の片隅にある、人通りの少ない小さなBAR。


 それでも、一人のお客様が次のお客様を連れてくる。


 そうして少しずつ、この場所に「夜」が積み重なっていく。


 店が歴史を作るのではなく――


 訪れた人たちが、この店の歴史を作っていく。


 そんな『白の記憶』であってほしいと思っています。


 そして最後の一杯は『XYZ』。


 アルファベットの最後の三文字。


 終わりを意味するようにも見えます。


 けれど、夜が終わるからこそ、次の朝が来る。


 そして朝が来れば――


 また新しい夜が始まります。


 BAR『白の記憶』の物語も、まだ終わりません。


 次に扉を開けるのは、どんな人なのか。


 どんな悩みを抱え、どんな一杯を求めてやって来るのか。


 そして蓮は、その人にどんな一杯を差し出すのか。


 それは、また次の夜のお話です。


 ここまで一緒に『白の記憶』の夜を歩いてくださり、本当にありがとうございました。


 次の一杯も、どうぞお楽しみに。

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