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『黒衣のバーテンダー ― 異世界の夜を満たす―』   作者: 蒼井 律
第六章:「黒実の奇跡編」
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第二十八夜 黒実の輪郭

 それから、幾つもの夜が過ぎた。


 『白の記憶』の裏手にある小さな作業場には、以前とは違う空気が流れていた。


 壁際に並ぶ、いくつもの小瓶。


 それぞれに日付と数字が書かれている。


 香りを抽出したもの。


 果肉から味を取ったもの。


 甘みを加えたもの。


 そして――失敗したもの。


 マルクは、そのすべてを捨てずに残していた。


「……これで二十三回目か」


 ノートをめくりながら、マルクが呟く。


「よく覚えていますね」


 隣で蓮が答える。


「忘れたくても、瓶を見ると思い出すんですよ」


 マルクは苦笑した。


「これは酸味が強すぎた」


「こちらは渋みが残りすぎました」


「これは……甘くしすぎた」


 小瓶を一つずつ確認していく。


 どれも完璧ではない。


 けれど。


 最初の試作品とは、明らかに違っていた。


 あの舌を刺すだけだった酸味は、今では輪郭の一部になっている。


 嫌な渋みも、少しずつ奥行きへと変わり始めていた。


 そして何より――


 黒実の奥に眠っていた香りが、はっきりと姿を現している。


 野生のベリー。


 深いカカオ。


 森の湿った土。


 そして、ほんの少しだけ甘い樹皮のような香り。


「素材そのものが、こんなに複雑だったなんて……」


 マルクは小瓶を光にかざした。


「最初は、ただの毒だと思っていたのに」


「素材は、最初から何も変わっていませんよ」


 蓮が言う。


「変わったのは、私たちの見方でしょうね」


 マルクは黙った。


 その言葉を、ゆっくりとノートに書き留める。


 ――素材は変わらない。


 ――見る側が変わる。


「……じゃあ、もう一つだけ試したい」


 マルクが顔を上げた。


「何でしょう?」


「甘みです」


 蓮は頷いた。


「どのように?」


「砂糖だけじゃ、この黒実の強さを隠してしまう気がする」


 マルクは棚から、小さな瓶を取り出した。


「東方の商人から買った蜂蜜です」


 蓮が香りを確かめる。


「かなり濃いですね」


「黒実と合わせるなら、こっちの方がいいと思う」


 蓮は何も言わず、マルクへ小さな計量匙を渡した。


「では、やってみましょう」


 マルクは慎重に蜂蜜を量った。


 一滴。


 もう一滴。


 そして、ほんの少しだけ加える。


 混ぜる。


 待つ。


 香りを確認する。


 マルクは眉を寄せた。


「……まだだ」


「そう思いますか?」


「はい」


 もう一度、ほんの少しだけ蜂蜜を加える。


 そして、静かに攪拌する。


 作業場に、甘い香りが広がった。


 黒実の鋭さが消えたわけではない。


 むしろ――


 その奥に隠れていた香りが、少しだけ前へ出てきた。


「……これだ」


 マルクの声が小さくなる。


「酸味が消えてない」


「はい」


「渋みも残ってる」


「ええ」


「でも……嫌じゃない」


 蓮は微笑んだ。


「それが調和です」


 マルクは黙ってグラスを見つめた。


 甘くする。


 酸味を消す。


 渋みをなくす。


 それだけなら、簡単だった。


 けれど。


 それでは黒実ではなくなってしまう。


「個性を消すんじゃない」


 マルクが呟いた。


「それぞれの強さを、ぶつからない場所まで持っていく……」


「その通りです」


 蓮は頷いた。


「酒は、足し算だけではありません」


「……引き算も必要なんですね」


「そして、待つことも」


 蓮は棚の奥から一本の小さな樽を取り出した。


 マルクが目を丸くする。


「これを?」


「最後の仕上げです」


 樽の内側には、ほんのり焦げた跡がある。


 第七夜から続く、あの熟成の知恵。


 マルクは樽を撫でた。


「また樽を使うんですね」


「ええ」


「黒実に、木の香りを少しだけ重ねる」


「はい」


 蓮は静かに説明した。


「ただし、長く眠らせすぎれば、黒実本来の香りを樽が覆ってしまいます」


「じゃあ……短く?」


「その判断は、マルク君に任せましょう」


「俺に?」


「あなたが、この酒を造っている職人ですから」


 マルクはしばらく樽を見つめた。


 そして。


「……三日」


 蓮は何も言わない。


「いや」


 マルクは首を振った。


「二日半」


「なぜです?」


「この香りを残したい」


 マルクは瓶を見た。


「樽の香りを主役にしたくないんです」


 蓮の目が、わずかに細くなる。


「いい判断です」


 マルクは静かに笑った。


「ありがとうございます」


 黒実の液体が、ゆっくりと小さな樽へ注がれていく。


 トクトク。


 暗い液体が、樽の中へ消えていく。


 栓をする。


 マルクはその樽を、作業場の一番奥へ運んだ。


「二日半」


「はい」


「それ以上は触らない」


「はい」


「焦らない」


「ええ」


 二人はそこで、ようやく手を止めた。


 あれほど失敗を繰り返してきた作業場に、初めて静かな時間が訪れた。


 マルクは椅子に腰を下ろす。


「……不思議ですね」


「何がでしょう?」


「最初は、早く完成させたくて仕方なかった」


「はい」


「でも今は……」


 樽を見る。


「早く飲んでみたいより、ちゃんと待ちたいって思う」


 蓮は微笑んだ。


「職人になってきましたね」


 マルクは少し照れたように笑った。


「……親方に聞かせたら、驚くかな」


「きっと」


 窓の外が、少しずつ暗くなっていく。


 また夜が始まる。


 けれど。


 作業場の奥では、一本の小さな樽が静かに眠っていた。


 その中には――


 誰も価値を見出さなかった黒い果実。


 何度も失敗したマルクの時間。


 そして、蓮から受け取った知識。


 それらが一つになっている。


 二日半後。


 この樽の蓋を開けたとき。


 そこにどんな酒が眠っているのか。


 まだ、誰にも分からない。


 ただ一つ。


 マルクだけは、もう確信していた。


 この酒には――


 自分の名前を刻める。


 その夜。


 『白の記憶』の裏手で。


 黒実の奇跡は、静かに最後の時間を待っていた。

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