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『黒衣のバーテンダー ― 異世界の夜を満たす―』   作者: 蒼井 律
第六章:「黒実の奇跡編」
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第二十七夜 苦闘と、冷徹な現実

 翌日の夜。


 『白の記憶』の裏手にある、小さな作業場。


 そこには、いくつものガラス瓶と秤、木の器、そして細かな記録が並べられていた。


 中央に置かれているのは――


 あの『夜の黒実』。


 マルクは腕を組み、じっとそれを睨んでいた。


「……こいつ、本当に手強いな」


 黒実を割る。


 硬い皮の内側から、濃い色の果肉が現れた。


 鼻を近づける。


 強烈な酸味。


 その奥に、わずかな甘い香り。


「やっぱり、ある……」


 マルクは呟いた。


「昨日感じた香りだ」


 彼は小さく頷き、仕込みを始めた。


 まずは王都で一般的に使われている蒸留酒。


 黒実を刻み、瓶へ入れる。


 そこへ酒を注ぐ。


 蓋を閉める。


「これで……どうだ?」


 時間を置く。


 一晩。


 二晩。


 三晩。


 やがて、瓶の中の液体は少しずつ色を変えていった。


 透明だった酒が、濁った紫色へ変わっている。


「……よし」


 マルクは期待を込めて瓶を開けた。


 香りを確認する。


「……」


 眉間に皺が寄る。


 それでも小さなグラスへ注いだ。


 ほんの少しだけ。


 口に含む。


 次の瞬間。


「っ……!」


 マルクの顔が歪んだ。


 舌の奥を刺すような酸味。


 その後から、口の中を乾かすような強烈な渋みが押し寄せる。


 喉を通ったあとも、嫌な苦みだけが残った。


「……まずい」


 マルクはグラスを置いた。


「いや……まずいなんてもんじゃない」


 もう一度、香りを確かめる。


 昨日感じた甘い香りは、ほとんど消えていた。


 残っているのは、鋭い酸味と渋みだけ。


「なんでだ……」


 瓶を見つめる。


「同じ果実なのに……」


 悔しさに任せ、マルクは机を叩いた。


 ガタン。


 瓶が揺れる。


「くそっ……!」


 その声が作業場に響いた。


 ギルドの職人たちの言葉が蘇る。


――ただの毒だ。


――迷宮のゴミだ。


――そんなものを酒にするなんて、時間の無駄だ。


「……俺も、同じことを証明してるだけなのか」


 マルクは椅子に腰を落とした。


 ペンを握る手から力が抜ける。


 そのとき。


 作業場の扉が静かに開いた。


「苦戦していますね」


「……マスター」


 蓮だった。


 黒衣の袖を整えながら、静かに作業場へ入ってくる。


 マルクは失敗作の瓶を指差した。


「見てくれよ」


「はい」


「全然駄目だ」


 蓮は瓶を手に取った。


 光に透かす。


 そして、香りを確かめる。


「確かに、これは厳しいですね」


「……やっぱり」


「ですが」


 蓮は瓶を置いた。


「失敗した理由を考えましたか?」


「え?」


「なぜ、こうなったのでしょう」


 マルクは黙った。


「酒に漬けたから……?」


「それだけでしょうか?」


「……」


 蓮は黒実を一つ手に取った。


「マルク君」


「はい」


「この果実の一番強いところは何ですか?」


「酸味……と、渋みです」


「では、なぜ最初からそれを酒の中へ全部出そうとしたのでしょう?」


「……!」


 マルクの目が見開かれる。


「強い成分ほど、簡単に出てくる」


「ええ」


「だから、先に出過ぎた……?」


「その可能性があります」


 蓮は頷いた。


「素材には、それぞれ取り出しやすいものと、時間をかけなければ出てこないものがあります」


 黒実を指先で軽く叩く。


「香りも、味も、一緒ではありません」


 マルクは失敗作の瓶を見た。


「つまり……俺は全部を一緒に取り出そうとした」


「そういうことです」


「……だから、酸味と渋みだけが勝った」


「はい」


 マルクは黙り込んだ。


 そして、ノートを開く。


 失敗作の横に、新しい文字を書き始めた。


酸味――強い。


渋み――非常に強い。


香り――抽出が弱い。


 ペンが止まる。


「マスター」


「はい」


「じゃあ……香りだけ先に取ることはできる?」


 蓮の口元に、ほんの少し笑みが浮かんだ。


「そこに気づきましたか」


「……試してみたい」


「では、試しましょう」


 蓮は棚からいくつかの小瓶を取り出した。


「一度に全部を取ろうとしない」


「……」


「必要なものを、必要な順番で取り出す」


 マルクは頷いた。


「二段階に分けるんですね」


「そうです」


 蓮は小さな瓶を三つ並べた。


「まずは香りを取る」


「次に、果実の奥にある味を取る」


「そして最後に、それぞれを合わせる」


 マルクの目が輝く。


「二段階の浸出……」


「ええ」


 蓮は黒実を見る。


「酒に漬ければ酒になる、というほど簡単なものではありません」


「……」


「酒造りは、素材との会話です」


 マルクはその言葉をノートに書き留めた。


 そして、黒実を手に取る。


 今度は焦らなかった。


 皮。


 果肉。


 芯。


 それぞれを慎重に分けていく。


「マスター」


「はい」


「この黒実……」


「何でしょう?」


「やっぱり面白い」


 蓮は静かに笑った。


「そう思えるなら、まだ大丈夫ですね」


「え?」


「本当に諦めた職人は、素材を面白いとは言いませんから」


 マルクは一瞬ぽかんとした。


 そして――


「……そうか」


 小さく笑った。


「俺、まだ諦めてないんだな」


「ええ」


 作業場に、小さな笑い声が響いた。


 それから二人は、夜が深くなるまで作業を続けた。


 瓶を並べ。


 温度を測り。


 香りを確かめ。


 何度も記録を書き直す。


 失敗すれば、捨てる。


 また仕込む。


 少し変える。


 もう一度試す。


 華やかな魔法など、どこにもない。


 ただ、職人の手と。


 時間と。


 素材と向き合う静かな夜だけがあった。


 そして――


 明け方。


 最初の小瓶を開けたマルクが、ふと顔を上げた。


「……マスター」


「はい?」


「香りが……」


 蓮も瓶へ顔を近づける。


 そこには。


 昨日まで存在しなかった香りがあった。


 野生のベリー。


 ほんの少しのカカオ。


 そして、森の奥のような深い香り。


 まだ完成にはほど遠い。


 けれど。


 確かに、黒実の中に眠っていたものが顔を出している。


 マルクは小瓶を握りしめた。


「……いた」


「ええ」


「こいつ、本当にいたんだ」


 蓮は静かに頷いた。


「だから言ったでしょう」


「素材が美味しくないことと――」


「酒にならないことは、別です」


 窓の外が、少しずつ白み始めていた。


 マルクはノートを開く。


 そして、新しいページに力強く書き込んだ。


『夜の黒実――第二試験』


 その文字の下に。


 小さく一言。


まだ、終わっていない。


 蓮はそれを見て、何も言わずに微笑んだ。


 黒実の奇跡は。


 まだ始まったばかりだった。

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