第二十六夜 迷宮の忘れ物
第六章【黒実の奇跡編】
第ニ章の【黄金の雫編】に続き、今度は「幻の果実を使ったオリジナル・リキュール(お酒)作り」に挑戦。
王都の誰もが、価値がないと見捨てたもの。
けれど、誰かが「価値がない」と決めたものの中に、本当に何もないとは限らない。
必要なのは、見つける目。
向き合う時間。
そして――諦めない職人の手。
今回、BAR「白の記憶」に持ち込まれるのは、迷宮の奥から命がけで持ち帰られた、漆黒の果実。
それは果たして、ただの「毒」なのか。
それとも――
まだ誰も知らない、新しい酒の原石なのか。
静かな夜のカウンターで、ひとつの奇跡が、ゆっくりと形を変えていきます。
今夜も、グラスを一杯。
どうぞ、最後までお付き合いください。
深夜二時。
王都の夜は、すっかり静まり返っていた。
表通りを行き交っていた馬車の音も消え、石畳には月明かりだけが落ちている。
その路地裏で、ひとつだけ灯りを絶やさない店があった。
BAR――『白の記憶』。
蓮はいつものように、カウンターのグラスを磨いていた。
そのときだった。
――ドン、ドン、ドン。
重い扉が、激しく叩かれた。
「マスター……!」
返事をするより先に、扉が開く。
息を切らして飛び込んできたのは、マルクだった。
「……マルク君?」
いつもの作業着は泥だらけ。
頬には煤がつき、右の袖は大きく裂けている。
手の甲には細かな傷がいくつも走っていた。
それでも彼は、自分の傷など気にしていない。
両腕で、大事そうに革袋を抱えていた。
「すみません……こんな時間に」
「構いませんよ」
蓮はグラスを置いた。
「ずいぶん遠くまで行ってきたようですね」
マルクは答えなかった。
ただ、革袋をカウンターの上へ置いた。
ドサリ。
ずっしりとした音が響く。
「……これを見てください」
震える手で、革袋の紐を解く。
中から転がり出たものを見て――
蓮は、わずかに目を細めた。
黒い。
果実だった。
大人の拳ほどもある。
表面には細かな棘があり、光を吸い込むような漆黒の皮をしている。
月明かりを受けても、赤や紫ではない。
ただ、深い黒。
それなのに。
どこか艶がある。
まるで夜そのものが、果実の形になったようだった。
蓮が少しだけ身を寄せる。
ふわり。
独特の香りが漂ってきた。
甘くはない。
熟した果実のような親しみやすさもない。
むしろ、鼻の奥を刺激するような鋭い酸味。
その奥に、乾いた渋み。
そして――
ほんのわずかな、野生的な甘い香り。
「これは……?」
「『夜の黒実』です」
マルクが答えた。
「東方の迷宮で見つけました」
蓮は黒実を見る。
「迷宮……ですか」
「はい」
マルクは、ようやく息を整えながら椅子に腰を下ろした。
「酒造ギルドの連中に話したら、誰も信じてくれなかった」
「なぜでしょう?」
「こんな果実、王都には存在しないからです」
マルクは苦笑した。
「俺だって最初は、ただの毒草かと思いました」
彼は黒実へ手を伸ばした。
しかし、触れる寸前で止める。
「迷宮の奥で見つけたんです」
その声が少しだけ低くなった。
「地図にも載っていない場所でした」
マルクは、自分の裂けた袖を見る。
「仲間と一緒に入ったんですが……途中で道が崩れて」
それ以上は語らなかった。
ただ。
革袋についた泥が、まだ乾ききっていない。
そこに、迷宮から持ち帰った時間が残っていた。
「それでも、これだけは持って帰りたかった」
「どうしてです?」
マルクは黒実を見つめた。
「……匂いがしたんです」
「匂い?」
「はい」
マルクは少し笑った。
「初めて見たときは、ひどい匂いでした」
「酸っぱくて、渋くて、近づくだけで舌が痛くなるような……そんな果実です」
「では、なぜ?」
「でも」
マルクの目が変わった。
「ほんの一瞬だけ、その奥から別の香りがしたんです」
蓮は黙って聞いている。
「甘いんです」
「……」
「ほんの一瞬だけ」
マルクは黒実を指先で撫でた。
「森の奥で熟したベリーみたいな……それから、カカオみたいな深い香りもあった」
彼は笑った。
「だから、捨てられなかった」
蓮は黒実を手に取った。
硬い。
棘がある。
だが、表面を指先でゆっくり撫でてみる。
「なるほど」
「どうですか?」
「面白い素材です」
その一言に、マルクの表情が変わった。
「……本当に?」
「ええ」
蓮は黒実を置いた。
「少なくとも、私にはゴミには見えません」
「……!」
「ただし」
蓮は穏やかに続けた。
「美味しいとも、まだ言えません」
マルクが少し肩を落とす。
「やっぱり……」
「ですが」
蓮は黒実をもう一度見た。
「素材が美味しくないことと、酒にならないことは別です」
マルクが顔を上げる。
「……別?」
「ええ」
蓮は一本の小さなナイフを取り出した。
「酒造りでは、最初から完成された素材ばかりを使うわけではありません」
黒実の表面に、刃先を軽く当てる。
「酸味が強ければ、酸味をどう扱うか考える」
「渋みが強ければ、渋みをどう残し、どこまで削るか考える」
「香りが強ければ、その香りを殺さず、どう引き出すかを考える」
蓮はナイフを置いた。
「だから、職人がいるのです」
マルクは黙って黒実を見つめた。
しばらくして。
「……俺、こいつを酒にしたい」
蓮は微笑んだ。
「でしょうね」
「ギルドに馬鹿にされてもいい」
「はい」
「失敗するかもしれない」
「ええ」
「それでも……」
マルクは黒実を両手で包み込んだ。
「こいつが本当に何なのか、知りたいんです」
蓮は、その顔を静かに見つめた。
以前のマルクなら、誰かの許可を待っていただろう。
親方の顔色を見て。
ギルドの常識を気にして。
失敗しない方法を探して。
だが今は違う。
自分で見つけた素材を。
自分の手で確かめようとしている。
「では、始めましょう」
「え?」
「まずは、この果実が何を持っているのかを調べます」
蓮は棚から数本の小瓶を取り出した。
「香り」
「酸味」
「渋み」
「そして、糖分」
それぞれを確認するための道具を、カウンターへ並べていく。
マルクの目が輝いた。
「……面白そうだ」
「酒造りは、飲む前から始まっていますからね」
蓮は黒実を見た。
漆黒の果実。
王都では、誰も価値を見出さなかった。
けれど。
それが本当に「ゴミ」なのか。
それとも――
まだ誰にも見つけられていないだけの「原石」なのか。
答えは、これから二人で確かめればいい。
マルクは泥のついたノートを開いた。
そして、一行目に大きく書き込む。
『夜の黒実――第一回試験』
蓮が静かに笑った。
「では、マルク君」
「はい」
「この迷宮の忘れ物を――」
蓮は一本のグラスを手に取った。
「最高の一杯に変えてみましょう」
マルクは力強く頷いた。
「はい、マスター」
深夜の『白の記憶』。
誰も知らない黒い果実を前にして。
二人の職人の、新しい実験が始まった。
その果実がいつか――
王都の酒造りそのものを変えることになるとは。
この夜の二人には、まだ知る由もなかった。




