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『黒衣のバーテンダー ― 異世界の夜を満たす―』   作者: 蒼井 律
第六章:「黒実の奇跡編」
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第ニ十九夜:漆黒の夜明け

 運命の夜が訪れた。


 BAR「白の記憶」の店内には、いつもの静かな時間が流れていた。


 磨き上げられたグラス。

 淡く揺れるランプの灯り。

 そして、カウンターの中央には、一冊の古びたノートと、一本の小さな木箱。


 その前に、マルクが立っていた。


「……とうとう、この日が来たんだな」


 マルクは、木箱へそっと手を置いた。


 ここまで来るのに、何度失敗したか分からない。


 渋みが強すぎた。


 酸味が尖りすぎた。


 香りが逃げたこともあった。


 何度も捨てようと思った。


 それでも、そのたびに蓮の言葉を思い出した。


――未知の果実には、未知の理を。


 マルクは小さく息を吐く。


「マスター……」


「はい」


「俺、本当にこれでいいのかな」


 蓮は答えず、木箱を静かに見つめた。


 そして、ゆっくりと頷いた。


「開けてみましょう」


 マルクは木箱の蓋を開いた。


 中に収められていたのは、一本のガラス瓶。


 ラベルは、まだない。


 その中で揺れているのは、黒紫色を帯びた、不思議な色の液体だった。


 ランプの光を受けると、漆黒の奥から、ほんのわずかに深い紅が浮かび上がる。


 まるで夜空の底に、消えずに残った夕暮れのようだった。


「……綺麗だ」


 マルクが呟いた。


 蓮は瓶を手に取り、静かに光へかざした。


「では、最後の確認をしましょう」


 コルクスクリューが、ゆっくりと栓へ食い込む。


 キュッ。


 静かな店内に、小さな音が響いた。


 そして――


 ポン。


 栓が抜けた瞬間。


 店内に、深い香りが広がった。


 野生の果実を思わせる甘酸っぱさ。


 その奥に潜む、樽のような香ばしさ。


 さらに、かすかなスパイスと、熟した果実を思わせる甘い余韻。


 あの最初の黒実からは、想像もつかない香りだった。


 マルクは目を閉じる。


「……あの迷宮で嗅いだ匂いとは、まるで違う」


「ええ」


「でも……」


 マルクは笑った。


「どこか、あの黒実の匂いが残ってる」


「それが、この酒の個性なのでしょう」


 蓮は小さなロックグラスを二つ取り出した。


 まず、一つ。


 そして、もう一つ。


 黒紫色の液体が静かに注がれていく。


 グラスの中で、夜の色がゆっくりと揺れた。


「お待たせいたしました」


 蓮がグラスをマルクの前へ置く。


「完成です」


 マルクはグラスを見つめた。


 けれど、すぐには口をつけなかった。


「……マスター」


「はい」


「この酒さ」


 マルクは少し照れたように笑った。


「名前を、つけてもらえないかな」


「私が?」


「うん」


 マルクはグラスの中の液体を見つめた。


「俺が名前をつけてもいいんだろうけど……」


 少しだけ言葉を探す。


「この黒実が、ここまで来た意味を一番分かってるのは、たぶんマスターだから」


 蓮はしばらく黙っていた。


 やがて、グラスを手に取る。


 黒紫色の液体が、ランプの光の中で静かに揺れた。


「……東方の迷宮」


「え?」


「あなたが、この黒実を見つけた場所です」


 マルクは黙って聞いている。


「光の届かない深い場所で、誰にも価値を見出されなかった果実を、あなたは命懸けで持ち帰った」


「……うん」


「最初は荒々しく、尖っていた」


「何度も失敗しました」


「ええ」


 蓮は微笑んだ。


「ですが、時間をかけ、手を加え、あなた自身の技術で、その奥に眠っていたものを引き出した」


 蓮はグラスの中の酒を見つめる。


「だからでしょうか」


 一拍。


「私には、これが一つの曲のように思えるのです」


「曲……?」


「ええ」


 蓮は静かに頷いた。


「誰にも聴かれなかった、夜の中の曲」


 マルクの表情が、少しずつ変わっていく。


「迷宮で過ごした夜」


「……」


「黒実と向き合った夜」


「……うん」


「何度失敗しても、諦めなかった夜」


 蓮はグラスを静かに置いた。


「そのすべてが重なって、今ここに一つの酒になった」


 そして――


「ノクターン・クロミ」


 マルクは、その言葉をゆっくりと口の中で転がした。


「ノクターン……クロミ」


「夜想曲――夜に奏でられる静かな曲です」


 蓮は黒紫色の酒へ目を向ける。


「『夜の黒実』が過ごしてきた夜と、あなたが歩いてきた夜。その二つを、一つの名前に込めました」


 マルクは何も言わなかった。


 ただ、グラスを見つめている。


 やがて、その目に小さな光が浮かんだ。


「……いい名前だ」


「お気に召しましたか?」


「ああ」


 マルクは笑った。


「俺、この名前……ずっと大事にするよ」


 蓮も、自分のグラスを持ち上げた。


「では――」


 カラン。


 二つのグラスが、静かな店内で触れ合った。


「ノクターン・クロミの誕生に」


「乾杯」


 二人は、ゆっくりとグラスを傾けた。


 マルクが一口含む。


 ――瞬間。


 彼の脳裏に、あの東方の迷宮が蘇った。


 湿った土。


 暗い森。


 傷だらけになりながら進んだ道。


 そして、闇の奥で初めて見つけた、あの漆黒の果実。


 あの日は、誰も価値を認めてくれなかった。


 自分自身さえ、何度も疑った。


 けれど今。


 そのすべてが、一杯の酒の中にある。


 強烈だった酸味は、丸くなっていた。


 荒々しかった渋みは、深いコクへと変わっている。


 ハチミツの柔らかな甘み。


 スパイスの温かな香り。


 そして、最後に残る、どこか野生的な黒実の余韻。


「……美味い」


 マルクの声が震えた。


「信じられないくらい……美味いよ、マスター」


 その頬を、一筋の涙が伝った。


 悔し涙ではなかった。


 認めてもらえなかった悲しみでもない。


 自分が信じたものは、間違っていなかった。


 その確信が生んだ涙だった。


 蓮は何も言わなかった。


 ただ、自分のグラスをもう一度傾ける。


 やがて、窓の外が少しずつ白み始めた。


 長かった夜が、終わろうとしている。


 マルクは、涙を拭って笑った。


「マスター」


「はい」


「俺……もっと造りたい」


「ええ」


「まだ、誰も知らない酒を」


 蓮は穏やかに微笑んだ。


「その言葉を聞けたなら、この酒を造った意味は十分にありますよ」


 東方の迷宮で拾われた、一粒の黒実。


 誰にも価値を認められなかった原石は、幾度もの失敗と、二人の職人の手を経て、一つの酒へと生まれ変わった。


 そして――


 その名は、夜に奏でられる一曲。


『ノクターン・クロミ』。


 夜明けの光が、静かに王都の屋根を照らし始めていた。


 新しい酒が生まれた夜は、もうすぐ朝へと変わる。


 けれど、その一杯が奏でる物語は――


 まだ、始まったばかりだった。

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