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『黒衣のバーテンダー ― 異世界の夜を満たす―』   作者: 蒼井 律
第五章:【一杯の朝焼け編】
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第二十三夜 終わらない夜と、黄金の朝

 午前二時。


 王都の大時計が、低く二度鳴った。


 夜の街は静まり返っている。


 けれど、その静寂の中でも、まだ灯りの消えない場所があった。


 王宮。


 そして、その王宮から少し離れた路地裏にある、小さなBAR。


 カラン。


 扉が開いた。


「……こんばんは」


 入ってきたのは、一人の若い女性だった。


 上等なドレスでも、貴族らしい装飾でもない。


 簡素な仕事着。


 その裾には、夜の王宮を歩き回ったせいか、薄く泥がついている。


 腕には書類の束。


 肩には疲労。


 そして、目の下には濃い影が落ちていた。


「いらっしゃいませ」


 蓮が静かに声をかける。


 女性はカウンターの前まで来ると、書類をどさりと置いた。


「……もう、疲れました」


「お疲れさまでございます」


「私、ミラっていいます」


「ミラ様ですね」


「王宮で働いています」


 そう言ってから、ミラは苦笑した。


「正確には、王宮の書類に働かされています」


 蓮は少しだけ微笑んだ。


「それは大変ですね」


「笑い事じゃないんですよ」


 ミラは頬を膨らませた。


 けれど、その表情にも力がない。


「毎日、書類を書いて、確認して、判をもらって……」


 指で数える。


「それが終わったら、また新しい書類が来る」


「はい」


「一日頑張れば終わると思っても、次の日にはもっと増えてる」


「なるほど」


「だから最近……」


 ミラはカウンターに頬をつけた。


「朝が怖いんです」


 蓮の手が止まった。


「朝が?」


「はい」


 ミラは窓の外を見る。


 まだ真っ暗だ。


「夜なら、仕事が終わったって思えるじゃないですか」


「ええ」


「でも、朝になったら……また始まる」


 ミラは目を閉じた。


「目が覚めた瞬間に、昨日の続きを思い出すんです」


 蓮は何も言わない。


 ただ、棚から一本のボトルを取り出した。


 冷えたシャンパン。


 そして、鮮やかなオレンジ。


 ミラが顔を上げる。


「……何を作るんですか?」


「今夜のミラ様に、ちょうどよいものを」


 蓮はグラスを冷やす。


 シャンパンを静かに注ぐ。


 そこへ、搾りたてのオレンジジュースを加える。


 細かな泡が、黄金色の液体の中をゆっくりと上っていく。


 蓮はグラスを軽く傾けた。


 泡が光を受けて、きらきらと揺れる。


「お待たせいたしました」


 黄金色の一杯を、ミラの前へ。


「『ミモザ』でございます」


 ミラは目を丸くした。


「……綺麗」


「ありがとうございます」


「まるで……」


 ミラはグラスを覗き込んだ。


「朝の光みたい」


「はい」


 蓮は頷いた。


「ミモザは、黄色い花を咲かせる植物の名前でもあります」


「黄色い花……」


「そして、この一杯はシャンパンとオレンジのカクテルです」


 ミラはそっとグラスを持ち上げた。


「飲んでいいですか?」


「もちろんです」


 一口。


 細かな泡が、舌の上で弾ける。


 そのあとから、オレンジの甘酸っぱさが広がった。


「……あ」


 ミラが目を閉じる。


「美味しい」


 もう一口。


「なんだか……」


 ミラはグラスを見つめた。


「夜なのに、朝みたい」


「それなら、今夜はそれでよろしいのではないでしょうか」


「え?」


「朝を怖がる必要はありません」


 蓮は静かに言った。


「明日の仕事を、今夜すべて終わらせる必要もありません」


 ミラは黙った。


「朝は、まだ来ておりませんから」


 その言葉に、ミラの表情が少しだけ緩んだ。


「……そうですよね」


「はい」


「まだ、夜なんですよね」


「ええ」


 ミラはグラスを両手で包んだ。


 温かい飲み物ではない。


 けれど、不思議と心が温かくなる。


「私……ずっと、明日のことを考えてました」


「はい」


「まだ来ていない朝のために、今夜まで苦しくなってた」


 ミラは苦笑した。


「変ですよね」


「そうでもないと思います」


「……?」


「真面目な方ほど、明日の責任まで今夜のうちに背負ってしまうことがあります」


 ミラは黙っていた。


 やがて。


「マスターって、不思議な人ですね」


「よく言われます」


「何もしてないのに、なんだか話してしまう」


「バーテンダーですから」


 蓮は穏やかに笑った。


「お客様が話したくなったときに、お席を用意するのも仕事の一つです」


 ミラは小さく笑った。


 そして、書類の束を見る。


「……これ」


「はい」


「明日の朝、一番に片づけようと思ってたんです」


「それは大変ですね」


「でも」


 ミラは一枚だけ取り出した。


「三日後でもいい書類が、混ざってました」


「では」


「はい」


 ミラはその書類を脇へ置いた。


「三日後にします」


 それだけのことだった。


 けれど。


 彼女にとっては、大きな決断だった。


「全部を今夜やらなくてもいいんですね」


「ええ」


「……そっか」


 ミラは残ったミモザをゆっくり飲み干した。


 グラスの底には、ほんの少しだけ黄金色が残っている。


「明日の朝は、来るんですよね」


「はい」


「じゃあ……」


 ミラは立ち上がった。


「ちゃんと眠ってから迎えます」


「それがよろしいかと思います」


 書類を抱え直す。


 さっきよりも、ほんの少しだけ背筋が伸びていた。


 扉の前で、ミラが振り返る。


「マスター」


「はい」


「朝って、思ってたより怖くないのかもしれませんね」


 蓮は微笑んだ。


「朝は、誰にでも同じようにやって来ますから」


「……はい」


 ミラも笑った。


 カラン。


 扉が閉じる。


 蓮はしばらく、その扉を見つめていた。


 やがて、カウンターへ戻る。


 空になったミモザのグラスを手に取る。


 黄金色の光が、グラスの底にほんの少しだけ残っていた。


 蓮はそれを布で丁寧に拭き上げる。


 外は、まだ暗い。


 けれど。


 夜は、永遠には続かない。


 どんなに長い夜にも。


 どんなに重たい仕事にも。


 いつか必ず、朝が来る。


 だからこそ。


 朝を迎えるために、今夜は少し休んでもいい。


 蓮は磨き上げたグラスを棚へ戻した。


 そして、窓の外を見た。


 遠くの空が。


 ほんの少しだけ、色を変え始めていた。


 まだ誰も気づかないほどの、小さな変化。


 それは――


 夜明けの最初の色だった。

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