第二十四夜 旅を忘れた商人と、赤い道標
午前三時。
『BAR・白の記憶』の扉が、ゆっくりと開いた。
カラン。
入ってきた男は、ずいぶんと疲れていた。
肩から下げた古い鞄。
擦り切れた外套。
そして、手には大きな革張りのトランク。
そのトランクには、世界各地の古い紋章がいくつも刻まれている。
「……ここ、まだやってるか?」
「はい」
蓮は静かに頭を下げた。
「お好きなお席へどうぞ」
男はカウンターの端に腰を下ろした。
トランクを足元へ置く。
その置き方だけで分かる。
ずいぶん長い間、旅をしてきた荷物だった。
「酒をくれ」
「どのようなお酒にいたしましょう?」
「都会的なやつ」
「都会的な……」
「そうだな」
男は少し考えた。
「華やかで、苦くて、少し孤独な酒がいい」
蓮は頷いた。
「かしこまりました」
取り出したのは、バーボン・ウイスキー。
スイート・ベルモット。
そして、ほんの数滴のビターズ。
ミキシンググラスに氷を入れる。
酒を注ぐ。
バースプーンが、氷の間を静かに滑っていく。
カラン。
カラン。
規則正しい音。
やがて蓮は、冷やしたカクテルグラスへ液体を注いだ。
深い琥珀色。
仕上げに、赤いチェリーを一粒。
「お待たせいたしました」
「……マンハッタンか」
「ご存じでしたか」
「昔、飲んだことがある」
男は少し笑った。
「ずいぶん昔だけどな」
「それでは、今夜は昔を思い出しながらどうぞ」
男はグラスを持ち上げた。
一口。
バーボンの力強い香り。
ベルモットの甘み。
ビターズの苦み。
そして最後に残る、長い余韻。
男は目を閉じた。
「……変わらないな」
「はい」
「いや」
男は首を振った。
「変わってる」
蓮は黙っている。
「昔飲んだときより、苦く感じる」
「それはお酒が変わったのでしょうか」
「……俺が変わったんだろうな」
男は苦笑した。
「昔の俺は、この苦みが好きだった」
「今は?」
「分からない」
男はチェリーを見つめた。
「俺は商人だった」
「はい」
「世界中を回った」
男の声に、ほんの少しだけ誇りが戻る。
「北の雪原へ行ったこともある。南の港にも行った。砂漠も越えた」
指を一本ずつ折る。
「珍しい香辛料を仕入れて」
「はい」
「異国の布を売って」
「はい」
「何度も危ない目にも遭った」
男は笑った。
「それでも、楽しかった」
その笑顔が、すぐに消えた。
「……ある取引で、大失敗した」
蓮は黙って聞いている。
「俺の判断ミスだった」
「……」
「相場を読み違えた」
「……」
「商品は全部失った」
男の指が、グラスを強く握る。
「仲間にも迷惑をかけた」
「……」
「それ以来だ」
トランクを見る。
「旅をやめた」
静かな声だった。
「もう二度と、遠くへ行かない」
「……」
「ここでじっとしている」
男は自嘲気味に笑った。
「失敗しないためにな」
蓮は、しばらく何も言わなかった。
やがて。
「そのトランクは?」
「……これか?」
「はい」
「捨てられなかった」
「なぜでしょう?」
男は答えられなかった。
トランクを見つめる。
何年も使っていない。
けれど、手放すこともできなかった。
「……分からない」
男は小さく呟いた。
「ただ」
トランクの革を撫でる。
「これを捨てたら、本当に全部終わる気がしてな」
蓮は微笑んだ。
「では、まだ終わっていないのかもしれませんね」
男が顔を上げる。
「え?」
「大切に残しているものには、何か理由があるものです」
男は黙った。
しばらくして。
「……マスター」
「はい」
「俺は、また旅に出るべきだと思うか?」
蓮は少しだけ考えた。
「私からは、何とも申し上げられません」
「そうか」
「ですが」
蓮はカウンターの中から、マンハッタンのグラスを少しだけ男の方へ押した。
「旅に出るかどうかを決める前に、一度そのトランクを開けてみてはいかがでしょう」
「……中身を?」
「はい」
「何年も開けてない」
「だからこそ、です」
男はしばらく迷っていた。
やがて。
トランクをカウンターの横へ置いた。
留め具に手を掛ける。
カチリ。
蓋が開いた。
中には、古びた地図。
異国の硬貨。
色あせた手紙。
そして――
一枚の小さな紙片。
男はそれを取り出した。
「……これ」
古い文字が書かれている。
かつて旅を共にした仲間からの言葉だった。
男はしばらく読み続けた。
やがて。
笑った。
ほんの少しだけ。
「……そうだった」
「何か思い出されましたか?」
「ああ」
男は紙片を握りしめた。
「失敗する前の俺は、金を稼ぐためだけに旅をしてたんじゃなかった」
「……」
「知らない場所を見るのが好きだった」
男の目に、少しずつ光が戻っていく。
「知らない人と話すのが好きだった」
古い地図を広げる。
「知らない酒を飲むのも好きだった」
そして。
地図の端を指でなぞる。
「……まだ行ったことのない場所が、こんなにある」
蓮は微笑んだ。
「それは、随分と忙しくなりそうですね」
「そうだな」
男は笑った。
今度は、さっきより少しだけ大きく。
「マスター」
「はい」
「この酒、もう一杯もらえるか?」
「もちろんです」
蓮は新しいグラスを用意する。
マンハッタンを注ぐ。
赤いチェリーを一粒。
男はそれを受け取った。
「次に旅へ出るときは」
グラスを見つめる。
「もっと美味く感じるかもしれないな」
「そうかもしれません」
「苦みも」
「はい」
「甘みも」
「はい」
男はグラスを掲げた。
「全部、旅の味ってことか」
蓮は静かに頷いた。
「お客様ご自身の味、かもしれませんね」
男は一口飲んだ。
今度は、少しも顔をしかめなかった。
やがて、トランクを閉じる。
けれど。
以前とは違った。
その手つきには、もう重さがなかった。
「マスター」
「はい」
「次に来るときは、土産を持ってくる」
「楽しみにしております」
「この世界の、まだ誰も知らない酒をな」
「それは楽しみですね」
男は立ち上がった。
トランクを肩に掛ける。
扉の前まで歩く。
そして振り返った。
「……旅ってのは、戻ってくる場所があるから面白いのかもしれんな」
蓮は微笑んだ。
「お帰りを、お待ちしております」
カラン。
扉が閉じた。
静寂が戻る。
カウンターには、空になったマンハッタンのグラス。
その底に、赤いチェリーの種だけが残っていた。
蓮はグラスを手に取る。
窓の外を見る。
まだ夜だった。
けれど、遠い空の端が、ほんの少しだけ薄くなっている。
朝は、もうすぐそこまで来ている。
蓮はグラスを磨きながら、小さく呟いた。
「……良い旅を」
誰もいない店内に、その言葉だけが静かに残った。
そして――
『白の記憶』の夜は、次の朝へとゆっくり続いていく。




