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『黒衣のバーテンダー ― 異世界の夜を満たす―』   作者: 蒼井 律
第五章:【一杯の朝焼け編】
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第二十二夜 解けない結び目と、琥珀の温もり

 深夜二時。


 『BAR・白の記憶』の静かな扉が、突然、乱暴に開いた。


「マスター! 甘くて、でも強い酒をくれ!」


 飛び込んできたのは、若い女だった。


 その後ろから、白髪の老人が続いて入ってくる。


「お前はいつもそうやって、自分勝手なことばかり言いおって!」


「親父こそ、いつまで古いやり方にしがみついてるのよ!」


 二人とも、かなり頭に血が上っている。


 蓮は二人を見て、静かに一礼した。


「いらっしゃいませ」


「マスター、この頑固親父に――」


「お前こそ、ろくに経験もないくせに――」


「……お二人とも」


 蓮の静かな声が、二人の間に落ちた。


「まずは、お席へどうぞ」


 二人は顔を見合わせた。


 そして、不承不承ながらカウンターの端と端へ腰を下ろした。


「お名前を伺っても?」


「アンナ」


「……バルドだ」


「ありがとうございます」


 蓮は二人の間に、少しだけ距離を置いて二つのマグカップを並べた。


 棚から取り出したのは、芳醇なダークラム。


 そこへブラウンシュガー。


 発酵バター。


 シナモン。


 そして、熱い湯。


 マドラーでゆっくりと混ぜる。


 バターが溶け、甘い香りとスパイスの香りが、静かな店内へ広がっていく。


「お待たせいたしました」


 蓮は二人の前へ、湯気の立つマグカップを置いた。


「『ホット・バタード・ラム』でございます」


 アンナがカップを覗き込む。


「……甘そう」


「ええ」


「私、もっと強い酒を頼んだんだけど」


「こちらも十分に強いお酒ですよ」


 蓮は微笑む。


「ただ、今夜は冷えていますので」


 バルドが鼻を鳴らした。


「こんな甘ったるい酒で、何が変わる」


「何も変わらないかもしれません」


 蓮は淡々と答えた。


「ですが、身体が温まれば、少しだけ言葉を急がずに済むかもしれません」


 二人は黙った。


 やがて、アンナがカップを持ち上げる。


 一口。


「……あったかい」


 バルドも仕方なく口をつける。


「……ふむ」


 ラムの力強い香り。


 ブラウンシュガーの優しい甘さ。


 そこへバターのコクと、シナモンの香りが重なる。


 身体の内側から、ゆっくりと温まっていく。


 それまで張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。


「……で?」


 アンナが父を見る。


「親父は、どうして私のやり方に反対するのよ」


「何度言えば分かる」


 バルドはカップを見つめたまま答えた。


「職人の仕事は、流行りに合わせればいいってものじゃない」


「流行りじゃないわ」


「同じことだ」


「違う!」


 また声が大きくなる。


 しかし、今度は先ほどほどではなかった。


 バルドが、ふっと息を吐く。


「……お前は、何も分かっていない」


「何がよ」


「この工房が、どうやってここまで続いてきたと思っている」


 アンナは黙った。


「俺の親父も、その親父も、この仕事をしてきた」


 バルドは自分の手を見る。


 節くれだった指。


 細かな傷。


 長年、道具を握り続けた手だった。


「何度も失敗した」


「……」


「何度も潰れかけた」


 アンナは、父の手を見つめていた。


「それでも、俺は続けた」


 バルドの声が少しだけ低くなる。


「守りたかったんだ」


「……工房を?」


「違う」


 バルドは首を横に振った。


「お前をだ」


 アンナの目が止まった。


「この工房を残せば、お前がここで生きていけると思っていた」


「……親父」


「だから、変えるのが怖かった」


 老人は苦笑した。


「新しい技術を取り入れて失敗したら、この工房がなくなる」


 アンナは何も言えない。


「だから、頑固になった」


 バルドはカップを両手で包んだ。


「……怖かったんだよ」


 その一言だけが、静かな店内に残った。


 アンナはしばらく黙っていた。


 やがて、自分のカップを見つめる。


「私も……」


 小さく呟いた。


「親父に、ずっとこの仕事を続けてほしいわけじゃなかった」


「……?」


「楽になってほしかったの」


 バルドが顔を上げる。


「新しい機械を入れれば、親父の負担を減らせる」


「……」


「若い人間が新しいことをやれば、親父はもっと楽に仕事ができる」


 アンナは笑った。


「なのに親父は、私が工房を奪おうとしてると思ってた」


 バルドは何も答えなかった。


 ただ、長い沈黙のあと。


「……そうだったのか」


 ぽつりと呟いた。


 アンナも頷く。


「うん」


 二人の間に、再び沈黙が訪れる。


 けれど。


 今度の沈黙は、先ほどまでのものとは違った。


 言葉を探すための沈黙だった。


 バルドがカップを一口飲む。


「……この酒」


「何?」


「悪くないな」


 アンナが少し笑った。


「でしょ?」


「お前が作ったのか?」


「違うわよ」


「そうか」


「でも、こういう新しいものも、悪くないでしょ?」


 バルドは少しだけ考えた。


「……全部を変える必要はない」


「え?」


「だが」


 老人はアンナを見る。


「残すものを残したまま、新しいものを取り入れることはできるかもしれんな」


 アンナの顔が、ゆっくりと明るくなった。


「それ……」


「まだ決めたわけじゃないぞ」


「分かってる」


 アンナは笑った。


「でも、今までよりはずっといい」


 蓮は何も言わず、二人の空になりかけたカップへ湯を足した。


「マスター?」


「少しだけ、おかわりを」


「……ありがとうございます」


 二人は並んでカップを持つ。


 今度は、少しだけ近い席だった。


 扉へ向かうとき。


 アンナが振り返った。


「マスター」


「はい」


「また二人で来てもいい?」


「もちろんです」


 バルドが苦笑する。


「次は喧嘩せずに来る」


「それは助かります」


 アンナが笑った。


「でも、たぶん喧嘩はするわ」


「おい」


「だって親子だもの」


「……まったく」


 二人の笑い声が、静かな店内に響いた。


 カラン。


 扉が閉じる。


 蓮は二人が座っていた席を見つめた。


 カウンターには、二つの空になったマグカップ。


 その底には、ほんの少しだけ琥珀色の液体が残っている。


 蓮はカップを手に取った。


 温もりは、まだ残っていた。


 人と人の間にできた結び目は、無理にほどこうとすれば、かえって固くなる。


 けれど。


 少しだけ温めて。


 少しだけ力を抜けば。


 自然にほどけることもある。


 蓮はカップを洗い、いつもの場所へ戻した。


 そして、静かに次のグラスを磨き始める。


 夜は、まだ長い。


 けれど。


 今夜の二人には、もう――


 ほんの少しだけ、朝が近づいていた。

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