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『黒衣のバーテンダー ― 異世界の夜を満たす―』   作者: 蒼井 律
第五章:【一杯の朝焼け編】
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第二十一夜 途切れた旋律と、青い余白

第五章【一杯の朝焼け編】

夜は、長い。


失ったものを思い出す夜。


自分の道が分からなくなる夜。


誰かの言葉に傷つく夜。


そして――


明日のことを考えるだけで、疲れてしまう夜。


そんな夜には、誰かに答えを教えてもらうよりも。


ただ一杯の飲み物を前にして、少しだけ立ち止まる時間が必要なのかもしれません。


『BAR・白の記憶』を訪れる人々は、それぞれ違う悩みを抱えています。


失った旋律。


言葉にできなかった想い。


終わらない仕事。


忘れてしまった旅。


そして、自分自身のこと。


蓮は、そんな彼らに何かを強いることはありません。


ただグラスを磨き。


一杯を作り。


静かに話を聞く。


すると不思議なことに――


夜の中に、ほんの小さな光が見えてくる。


それは、誰かに与えられるものではなく。


その人自身の心の中に、もともとあったものなのかもしれません。


夜明けは、突然やってくるものではない。


暗闇の中に、ほんの少しずつ朝の色が混ざっていく。


今夜もまた。


『白の記憶』の灯りが、その小さな朝を待っています。

 深夜二時。


 王都の夜は、いつもより静かだった。


 風に揺れる街灯の向こう。


 人通りのない路地裏で、『BAR・白の記憶』だけが、ぽつりと灯りをともしている。


 カラン。


 小さなベルが鳴った。


「いらっしゃいませ」


 蓮が顔を上げる。


 入ってきた青年は、しばらく扉の前から動かなかった。


 肩には古びた楽器ケース。


 片手には、何度も書き直されたらしい楽譜。


 そして、その指先は――ひどく冷えていた。


「……酒を」


 青年はようやくカウンターへ歩いてくる。


「強いものをお願いします」


「かしこまりました」


 蓮がグラスを用意する。


 青年は椅子に腰を下ろした。


「俺は、レオンといいます」


「はい」


「音楽家です」


 そこで一度、言葉が途切れた。


「……だった、と言ったほうがいいのかもしれません」


 蓮は何も言わない。


 ただ、磨いていたグラスを静かに置いた。


「昔は、天才だって言われてました」


 レオンは笑った。


 けれど、その笑顔には少しも嬉しさがなかった。


「曲を書けば褒められた。演奏すれば拍手された。次はどんな曲を書くんだって、みんなが期待してくれた」


 指先が、楽譜の端を握る。


「だから……期待に応えようとした」


 紙が、くしゃりと鳴った。


「売れる曲を書こうとして」


「……」


「評判のいい曲を研究して」


「……」


「人気のある音を真似して」


 レオンは俯いた。


「気づいたら、自分が何を弾きたいのか分からなくなってました」


 蓮は静かに頷いた。


「なるほど」


「何度書いても、誰かの真似なんです」


 レオンは破れた楽譜をカウンターへ置いた。


「もう、音が出ない」


 蓮はその楽譜を見る。


 しばらく考えたあと、棚から一本のボトルを取り出した。


 鮮やかな青。


 夜の海を閉じ込めたような色だった。


 ホワイトラム。


 ブルーキュラソー。


 パイナップルジュース。


 蓮はそれらをシェーカーへ注ぐ。


 氷を入れる。


 そして――


 カシャ、カシャ、カシャ。


 静かな店内に、規則正しい音が響いた。


 レオンが顔を上げる。


 その音を、じっと聞いている。


 蓮はシェーカーを止めた。


 冷やしたグラスへ、青い液体をゆっくりと注ぐ。


 表面にクラッシュアイスを浮かべる。


 最後に、小さな飾りを添えた。


「お待たせいたしました」


 青い海のような一杯。


「『ブルー・ハワイ』でございます」


 レオンはグラスを見つめた。


「……綺麗だ」


「ありがとうございます」


「でも」


 レオンは苦笑する。


「今の俺には、少し眩しすぎます」


「そうでしょうか」


「こんな綺麗なものを見ても、俺の中には何も浮かばない」


 蓮は、グラスを少しだけレオンの方へ押した。


「では、何も考えずに飲んでみてください」


「……それだけ?」


「はい」


 レオンは怪訝そうに眉を寄せた。


 それでも、ゆっくりとグラスを持ち上げる。


 一口。


 爽やかな甘さ。


 パイナップルの柔らかな酸味。


 その奥から、ラムの香りが静かに追いかけてくる。


 レオンは何も言わなかった。


 二口目。


 三口目。


 やがて、グラスを置いた。


「……青い」


「はい」


「味の話じゃない」


 レオンはグラスの中を覗き込んだ。


「なんだろう……」


 青い液体の向こう側に、何かを探すように。


「海みたいだ」


「海、ですか」


「昔……」


 レオンの声が、少しだけ柔らかくなった。


「子供の頃、海辺で音楽を聴いたことがあるんです」


「……」


「誰も評価しなかった。誰も期待しなかった」


 レオンは小さく笑った。


「ただ、波の音を聞きながら、好きなように弾いてた」


 そこで、彼は黙った。


 店内に流れる静かな時間。


 蓮は何も言わない。


 ただ、カウンターを磨いている。


 やがて。


 レオンが呟いた。


「……あの頃は、楽しかったな」


 それは、何年も忘れていた言葉だった。


 レオンは楽譜を見る。


 破れた紙。


 何度も消しては書き直した跡。


 他人の曲に似せようとして、書き直した旋律。


「俺……音楽を嫌いになったんじゃなかった」


 自分自身に確認するように呟く。


「音楽で、認められようとすることに疲れただけだったんだ」


 蓮は微笑んだ。


「それなら、今夜は十分ではないでしょうか」


「……え?」


「音が戻らなくても」


 蓮は静かに言った。


「音楽を好きだった頃のことを思い出せたのなら」


 レオンは、しばらく何も言わなかった。


 やがて。


 楽譜を一枚取り出した。


 新しい紙ではない。


 破れた古い紙の裏側だった。


 そこへ、震えていた指先でペンを走らせる。


 さらさら。


 小さな音がする。


「……あ」


 レオンが手を止めた。


「今、聞こえた」


「何がでしょう?」


「音です」


 レオンは顔を上げた。


 今度の笑顔には、昔のような「天才」と呼ばれる者の自信はなかった。


 もっと静かで。


 もっと自然な笑顔だった。


「俺の音だ」


 蓮は何も言わず、ただ一度だけ頷いた。


 レオンは楽譜を胸に抱えた。


「マスター」


「はい」


「この酒、もう一杯ください」


「喜んで」


 蓮が再びシェーカーを手に取る。


 カシャ、カシャ、カシャ。


 その音を聞きながら、レオンは小さく笑った。


「……この音も、曲に使えそうだ」


 カウンターに、新しい楽譜が一枚置かれる。


 まだ、たった数小節。


 完成にはほど遠い。


 それでも。


 そこには誰かの真似ではない、レオン自身の旋律があった。


 やがて青年は、楽器ケースを肩に掛ける。


「ありがとうございました」


「こちらこそ」


 扉の前で、レオンが振り返る。


「マスター」


「はい」


「次に来るときは……曲を持ってきます」


「楽しみにしております」


 カラン。


 扉が閉じる。


 静かな夜が戻ってくる。


 蓮はカウンターに残された、青いグラスを見つめた。


 その底に残った一滴が、店の灯りを受けて淡く揺れている。


 外の空は、まだ暗い。


 けれど。


 夜のどこかで、もう一つの朝が始まろうとしていた。


 蓮はグラスを手に取り、いつものように丁寧に磨き始めた。


 ――誰かの心に、もう一度音が戻る夜。


 そんな夜もまた。


 『白の記憶』には、静かに訪れる。

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