第二十夜:硝煙の氷、夜は明ける
深夜二時。
王都の鐘が鳴った。
いつもなら静かな夜を告げる鐘の音が、今夜だけは違って聞こえた。
街の外では、帝国軍が動いている。
王国軍もまた、城壁の内側で待機していた。
夜明けとともに、両軍が動き出す。
そう誰もが思っていた。
けれど。
『BAR・白の記憶』には、いつもと変わらない灯りがともっている。
カラン。
扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、アイリスだった。
その顔には疲労が滲んでいる。
けれど、目だけはまっすぐだった。
「マスター」
「はい」
「……まだ、間に合いますか?」
「何にでしょう?」
「戦争を止めることに」
蓮は少しだけ微笑んだ。
「まだ始まっていないのであれば」
一枚のグラスをカウンターへ置く。
「止める余地はあるのではないでしょうか」
アイリスは静かに頷いた。
そして、カウンターへ座る。
「昨夜、ガルド将軍は帝国へ確認に戻りました」
「はい」
「そして今朝――」
アイリスは一枚の書類を取り出した。
「帝国から、新しい命令が届きました」
蓮は書類を見る。
そこには、簡潔な命令が記されていた。
ガルド大将軍は、王都攻略戦の全権指揮官から外す。
その一文。
アイリスは唇を噛んだ。
「将軍は、帝国から切り捨てられました」
「……」
「代わりに、別の将軍が前線へ向かっています」
蓮は静かに尋ねた。
「ガルド様は?」
「こちらへ向かっています」
その直後。
カラン。
扉が開いた。
ガルドだった。
だが、昨日までの姿とは違っていた。
軍服は乱れ。
勲章も外されている。
腰に剣はない。
手には一枚の紙だけ。
ガルドは無言でカウンターへ座った。
「……酒をくれ」
「何をお作りしましょう?」
「任せる」
蓮は少し考えた。
そして、棚から一本のボトルを取り出した。
琥珀色のウイスキー。
マルクとバレル親方が造り上げた、あの酒だった。
グラスへ大きな氷を一つ。
そこへ、ゆっくりと琥珀色の液体を注ぐ。
カラン。
氷が一度だけ鳴った。
「お待たせいたしました」
「……何という酒だ?」
「『黄金の雫』でございます」
ガルドはグラスを見つめた。
「黄金……か」
「はい」
ガルドはゆっくりと口をつけた。
一口。
深い香り。
柔らかな甘み。
そして、長く続く余韻。
しばらく黙っていた。
「……美味いな」
「ありがとうございます」
「戦場では、こんな味は知らなかった」
「でしょうね」
ガルドは苦笑した。
「俺は今日、軍人ではなくなった」
アイリスが顔を上げる。
「帝国は、俺を反逆者として扱うつもりらしい」
「そんな……」
「当然だ」
ガルドは淡々としていた。
「皇帝の命令に疑問を持った軍人など、帝国には必要ない」
「では、戦争は……」
「続く」
ガルドは答えた。
「俺が外されたことで、別の将軍が王都を攻める」
アイリスの顔が強張る。
「でも」
ガルドはグラスを置いた。
「一つだけ分かった」
「……何がですか?」
「俺が死ぬことが、本当の目的だった」
ガルドは懐から紙を出した。
「これは、俺が帝国に戻る途中で手に入れた命令書だ」
アイリスが受け取る。
目を走らせる。
「……これは」
「俺が戦死した場合の軍の再編計画だ」
アイリスの手が震えた。
そこには、王都攻略後の帝国軍の配置が記されていた。
しかし。
不自然な部分がある。
「王都を占領した後の計画に……」
アイリスが顔を上げる。
「王都の統治がありません」
「そうだ」
ガルドは頷いた。
「占領後の行政計画がない」
「つまり……」
「帝国は、本気で王都を支配するつもりがない」
沈黙。
ガルドは続けた。
「戦争を起こす」
「……」
「王都を攻撃する」
「……」
「俺を戦場で殺す」
そして。
「その混乱を利用して、帝国内部の権力を奪う」
アイリスは息を呑んだ。
「皇帝は……自分の側近たちを?」
「俺だけじゃない」
ガルドの声が低くなる。
「他にも何人か、古い将軍が消される予定になっている」
アイリスは書類を握りしめた。
「では、この戦争は……」
「王国との戦争ですらない」
ガルドはグラスを見つめた。
「帝国の中で起きている権力争いだ」
その言葉が落ちた瞬間。
店内が静まり返った。
アイリスは立ち上がった。
「なら……」
新しい万年筆を取り出す。
「まだ、止められます」
ガルドが顔を上げた。
「どうやってだ?」
「王国と帝国が戦わなければいい」
「……」
「戦争の理由そのものが存在しないと、帝国側に示します」
アイリスは紙を広げた。
「停戦ではありません」
ペンを握る。
「共同声明です」
ガルドの目が変わった。
「王国と帝国が、今回の戦争の真相を共同で公表する」
「そんなことをすれば、帝国では内乱になるぞ」
「それでも」
アイリスはガルドを見る。
「何万人もの命を犠牲にするよりはいい」
ガルドは黙った。
そして。
小さく笑った。
「……強くなったな」
「誰のおかげでしょうね」
アイリスは蓮を見る。
「この店で、何度も温かいものをいただいたからでしょうか」
「私は何もしておりませんよ」
蓮は静かにグラスを磨いていた。
「私は飲み物をお出ししただけです」
そのとき。
カラン。
また扉が開いた。
「マスター!」
入ってきたのは、勇者だった。
その後ろからシルヴィア。
さらにカルバン公爵。
「聞いたぞ!」
勇者が息を切らせている。
「帝国軍が動きを止めた!」
「……!」
アイリスが立ち上がる。
シルヴィアが続ける。
「国境付近の兵士たちも、剣を下ろしている」
カルバン公爵は深く息を吐いた。
「どうやら帝国軍内部でも、今回の命令に疑問を持つ者が増えているらしい」
ガルドは目を閉じた。
「……そうか」
そして。
ゆっくりとグラスを持ち上げた。
「ならば、俺も最後の仕事をするか」
アイリスを見る。
「共同声明の署名をしよう」
「はい」
二人はカウンター越しに向き合った。
アイリスが紙を差し出す。
ガルドがペンを取る。
そして。
署名する。
カリ、カリ。
静かな店内に、ペン先が紙を走る音だけが響いた。
やがて。
ガルドが印章を押す。
アイリスも続いた。
王国と帝国。
二つの国の間にあった憎しみを、一枚の紙が繋いだ。
剣は抜かれなかった。
魔法も使われなかった。
誰も死ななかった。
ただ。
一杯の酒と。
一枚の紙と。
二人の人間の決断があった。
ガルドは立ち上がった。
そして、蓮を見る。
「マスター」
「はい」
「俺は今日、初めて戦場以外で勝った気がする」
蓮は微笑んだ。
「それは何よりでございます」
「……ありがとう」
「こちらこそ、ご来店ありがとうございました」
ガルドは少しだけ笑った。
「また来てもいいか?」
「もちろんです」
「今度は戦争の話ではなく」
ガルドはグラスを見る。
「酒の話をしに来る」
「喜んでお待ちしております」
ガルドが店を出ていく。
アイリスも続いた。
最後に振り返る。
「マスター」
「はい」
「私、外交官を続けます」
「それがよろしいかと思います」
「今度は、ペンを折られないようにします」
「……折れても、書けることはありますよ」
アイリスは微笑んだ。
「はい」
カラン。
扉が閉じる。
静寂。
しばらくして、勇者がグラスを掲げた。
「マスター」
「はい」
「今夜は、乾杯していいか?」
蓮は小さく笑った。
「もちろんです」
シルヴィアも。
カルバン公爵も。
そしてガルドが置いていったグラスも。
静かなカウンターに並んだ。
カラン。
グラス同士が触れ合う。
その音は。
剣がぶつかり合う音より、ずっと小さい。
けれど――
その夜。
その小さな音が、二つの国の未来を変えた。
やがて、窓の外が少しずつ明るくなっていく。
藍色だった空が、薄い紫へ。
そして、淡い金色へ。
夜が明ける。
蓮はカウンターの上に残されたグラスを一つずつ片づけていった。
最後に。
ガルドが飲み干した『黄金の雫』のグラスを手に取る。
琥珀色の残り香が、ほんの少しだけ残っていた。
蓮はそれを静かに洗い、布で磨く。
そして、いつもの場所へ戻した。
「……さて」
誰もいなくなった店内で、蓮が小さく呟く。
「今夜も、仕込みを始めましょうか」
戦争が止まったからといって。
世界から争いが消えたわけではない。
悲しみも。
孤独も。
後悔も。
きっと、これからも夜ごとに、この扉を叩く。
だから。
蓮は今日も店を開ける。
誰かが疲れた夜に。
誰かが迷った夜に。
誰かが、もう一度だけ前を向きたいと思った夜に。
一杯の酒を差し出すために。
BAR・白の記憶。
その夜は、今日も静かに始まる。
第四章【硝煙の氷編】
――完――
第四章【硝煙の氷編】を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、これまでの章とは少し違う物語になりました。
これまで『白の記憶』を訪れた人たちは、それぞれ自分自身の悩みを抱えていました。
けれど今回は、その悩みが一人の人間だけのものではありません。
国と国。
軍人と外交官。
命令する者と、命令される者。
それぞれの立場がぶつかり合う中で、一つの戦争が始まろうとしていました。
そんな中でも、蓮は剣を抜きません。
魔法も使いません。
ただ、いつものようにグラスを磨き、一杯の酒を作り、訪れた客の話に耳を傾ける。
それだけです。
けれど、人は酒を飲むと、ほんの少しだけ素直になる。
強がっていた人が弱さを見せる。
敵だと思っていた相手の言葉に、耳を傾ける。
そして、自分自身の本当の気持ちに気づく。
今回の物語で描きたかったのは、そんな「戦わない強さ」でした。
剣が交わらなくても。
魔法がぶつからなくても。
誰かの人生を変えることはできる。
そして最後に残ったのは――
一滴の血ではなく、一杯の酒でした。
『白の記憶』には、これからも様々な人が訪れます。
英雄も。
権力者も。
職人も。
魔族も。
そして、名もない一人の旅人も。
蓮はきっと、誰に対しても同じように言うのでしょう。
「いらっしゃいませ」
その一言から始まる、次の夜を。
また一緒に覗いていただければ嬉しく思います。
それでは――
次の夜に、BAR・白の記憶でお待ちしております。




