表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『黒衣のバーテンダー ― 異世界の夜を満たす―』   作者: 蒼井 律
第四章;【硝煙の氷編編】
PR
20/42

第十八夜:揺れるグラスと、隠された命令

 翌日の夜。


 王都の空には、分厚い雲がかかっていた。


 風は冷たい。


 街のあちこちでは、戦争に備える兵士たちが慌ただしく動き回っている。


 武器を運ぶ音。


 馬の蹄。


 遠くから聞こえる号令。


 明日の夜。


 王都が戦場になるかもしれない。


 そんな緊張が、街全体を包んでいた。


 けれど。


 路地裏の一角だけは、いつもと変わらない。


 淡い灯り。


 磨かれたグラス。


 静かな音楽。


 そして――


 『BAR・白の記憶』。


 カラン。


 扉のベルが鳴った。


「いらっしゃいませ」


 入ってきたのは、昨日と同じ男だった。


 帝国軍大将軍、ガルド。


 ただし、今日は一人だった。


 近衛兵の姿もない。


 ガルドは無言でカウンターへ向かい、いつもの席に腰を下ろした。


「……今日は、一人なのですね」


「部下を連れてくるような場所ではないと思ってな」


「ありがとうございます」


 蓮はいつものように一礼した。


「今夜は何をお作りいたしましょう?」


「昨日のアブサンは?」


「もちろんございます」


「なら、それを」


「かしこまりました」


 蓮は同じようにアブサンを注ぐ。


 氷砂糖。


 冷たい水。


 ゆっくりと白く変わっていく液体。


 ガルドは、その様子を黙って見つめていた。


「……不思議な酒だ」


「はい」


「透明だったものが、少しずつ白く濁っていく」


「お酒も、人の心も似ているのかもしれませんね」


 ガルドが鼻で笑った。


「お前は、酒の話をしているのか?」


「もちろんです」


「……そういうことにしておこう」


 ガルドはグラスを手に取った。


 一口。


 昨日よりも、ゆっくり飲んでいる。


「明日だ」


 突然、ガルドが言った。


「はい」


「明日の夜」


「……」


「王国との最後の交渉が終わる」


 蓮は何も答えない。


「王国が降伏すれば、それで終わりだ」


「そうなれば、よろしいですね」


「……そう簡単な話でもない」


 ガルドはグラスを見つめた。


「俺は、戦争が嫌いだ」


 蓮の手が止まる。


 けれど、何も言わない。


「意外か?」


「いいえ」


「軍人なのに?」


「軍人だからこそ、ではないでしょうか」


 ガルドは少しだけ目を細めた。


「……なるほどな」


 そして、アブサンを飲む。


「俺は、これまで何度も戦場へ行った」


「はい」


「勝ったこともある」


「でしょうね」


「負けたこともある」


 ガルドの声が低くなる。


「だが、戦場で一番恐ろしいのは敵じゃない」


 グラスの中で氷砂糖が揺れた。


「命令だ」


 蓮は静かにガルドを見る。


「自分では正しいと思えない命令でも、軍人は従わなければならん」


「……」


「百人を救うために十人を犠牲にしろと言われたら、十人を犠牲にする」


 ガルドは苦笑した。


「千人を救うために百人を捨てろと言われれば、百人を捨てる」


「それが軍人の責任ですか」


「そうだ」


 少し間を置いて。


「……だがな」


 ガルドの指が、グラスを強く握った。


「最近の命令は、おかしい」


 蓮は何も聞かなかった。


 ガルド自身が続ける。


「王都を落とせ」


「……」


「それだけなら分かる」


「はい」


「だが、その後だ」


 ガルドは眉をひそめた。


「『大将軍ガルドは前線に留まり、王都制圧まで指揮を執れ』」


「……」


「妙だと思わんか?」


 蓮は答えない。


「俺ほどの階級なら、本来なら後方から全軍を指揮する」


 ガルドは苦笑した。


「なのに今回は、なぜか俺が最前線だ」


 グラスを傾ける。


「しかも、援軍の配置まで妙に薄い」


 蓮の目が、ほんの少しだけ動いた。


「補給も遅れている」


「……」


「伝令も妙に少ない」


 ガルドはそこで言葉を止めた。


「まるで――」


 低い声。


「俺が死ぬことを前提に、軍が組まれているようだ」


 静寂。


 蓮はグラスを磨いていた。


 カウンターの向こうで、布がガラスを滑る音だけが響く。


 ガルドは自嘲するように笑った。


「……馬鹿な話だな」


「そうでしょうか」


「何?」


「もし本当にそうであれば」


 蓮は静かにグラスを置いた。


「将軍閣下は、明日の戦場で何を守るおつもりですか?」


 ガルドは答えなかった。


 長い沈黙。


 やがて。


「……部下だ」


 小さな声だった。


「俺の命令で戦う奴らだ」


 ガルドは俯いた。


「俺が死ねば、あいつらはどうなる」


「……」


「指揮官が突然いなくなれば、混乱する」


「はい」


「だから――」


 ガルドはそこで言葉を切った。


 自分自身でも、何かに気づいたような顔だった。


「……いや」


「?」


「違う」


 ガルドは顔を上げた。


「俺が死んだ後のことまで、誰かが考えている」


 声が低くなる。


「それも……敵ではなく、味方側で」


 蓮は何も言わない。


 ガルドは椅子にもたれた。


「皇帝陛下は、俺を信用していると思っていた」


「……」


「何十年も帝国のために戦ってきた」


 ガルドの目に、わずかな寂しさが浮かぶ。


「なのに……」


 言葉が続かない。


 蓮は静かに水を差し出した。


「どうぞ」


 ガルドはグラスではなく、その水を見つめた。


「……ありがとう」


 一口飲む。


 冷たい水が喉を通る。


 しばらくして、ガルドは立ち上がった。


「今日はここまでにする」


「かしこまりました」


 金貨を置く。


 昨日より少ない。


 けれど、蓮は何も言わない。


 扉へ向かう。


 そして、ガルドは振り返った。


「マスター」


「はい」


「もし明日、俺がここへ来なかったら――」


 蓮は黙っている。


 ガルドは苦笑した。


「……いや」


 首を振る。


「忘れてくれ」


 カラン。


 扉が閉じた。


 蓮はしばらく、その扉を見つめていた。


 そして。


「……なるほど」


 小さく呟く。


 だが、まだ断定はしない。


 ガルドが語ったのは、あくまで違和感だ。


 証拠ではない。


 ただ――


 その夜。


 BAR・白の記憶の扉を、もう一度叩く者がいた。


 コン。


 コン。


 蓮が扉を開ける。


「こんばんは」


 そこに立っていたのは、アイリスだった。


 昨日とは違う。


 涙はない。


 新しい万年筆を握りしめている。


「マスター」


「はい」


「明日の交渉について、一つお願いがあります」


「どうぞ」


 アイリスは、静かに息を吸った。


「ガルド将軍を――この店に迎え入れる準備をお願いします」


「承知しました」


「そして」


 アイリスは、少しだけ迷ってから言った。


「私も、もう一度ここで話をします」


 蓮は微笑んだ。


「それでは、明日の夜に」


「はい」


 アイリスは深く頭を下げた。


 扉が閉じる。


 夜はさらに深くなる。


 王都の外では、戦争の準備が進んでいる。


 兵士たちは剣を磨き。


 魔導士たちは魔法陣を整え。


 将軍は命令を疑い始めた。


 そして、一人の外交官は――


 折れたペンの代わりに、新しい一本を握っている。


 明日の夜。


 この小さなカウンターで。


 国の命運を決める言葉が交わされる。


 蓮は静かにグラスを磨いた。


 その音だけが、誰もいない店内に響いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ